聚楽第

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じゅらくだい


画題

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解説

画題辞典

聚楽第は京都に於ける豊臣秀吉の邸宅にして、天正十二年に成る、その壘廓は総て城制にして、内に宮殿を建つ、外観内観共に金碧燦爛具に豪華を極む、十五年秀吉大阪より移りて之に居り、十六年、奏請して後陽成天皇の行幸を仰ぐ、儀衛鹵簿の盛古今稀に見る所にして駐輦五日に及ぶ、之を世に聚楽行幸と称す。其後秀吉此第を弟秀次に譲り、秀次死後遂に之を毀つ、遺趾は京都の西端にあり、東は大宮、西ほ千本、南は丸太、北は一条に及ぶという、此第の盛観を画けるもの、佐野伯爵所蔵及三井高辰氏所蔵に筆者不明の屏風あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

豊臣秀吉の営んだ邸、第は今の京都上京区の東は大宮通、西は千本通、南は丸太町、北は一条に至る間の地に建てられたもので、善美を尽し花木水石の奇を集めたこと足利氏の花御所や北山殿にも勝つてゐたといふ、天正十四年春工を起し十五年九月落成するや、秀吉大阪から移つて住み、十六年六月には後陽成天皇の行幸もあつた、秀吉秀次に譲つてからは秀次ここに住んだが、秀次亡びて聚落第も亦廃毀されてしまつた。

その豪華さを画いたものに筆者不明、三井高辰氏蔵屏風、及び佐野伯爵家蔵の屏風がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)