織田信長

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おだのぶなが


画題

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解説

画題辞典

「おだうふ」(織田右府)を見よ。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

織田信長、姓は平氏、平重盛の後裔、備後守信秀の二男、天文三年五月古渡城に生れた、少時より大志あつて豪放、壮年時代から侠を好み士を養ひ勇にして断、天文十九年元服して信長と名乗る、その前年父信秀死す、信長日夜武事を好んで更に国務を顧みぬので、老臣平手清秀之を苦諌し遂に自殺した、信長此に於て大に悔悟し、慨然起つて天下を平定するの志を懐き、永禄三年今川義元の大軍を桶狭間に敗り威名天下に振ふ、五年十月正親町天皇密に使を遣はして信長に天下平定の事を命じ給うた、信長大に喜び、同七年先づ美濃を下し、十一年には足利義昭を輔けて京師に入り翌年三好党の乱を平らげ、義昭の為めに二条を経営し、元亀元年正四位下となる、此年浅井朝倉の二氏を姉川に破り、二年延暦寺を屠り僧兵を亡ぼした、信長皇室を尊崇するの念厚く、予て皇居の造営を奉仕し、朝儀の衰頽を憂ひ之が復興に当つたが、実に此の年を以て志を達した、更に供御の御田を置き、旧典を復すなど功枚挙に遑ない、三年七月清涼殿に於いて天盃を拝受し、十一月権大納言となり右近衛大将を兼ね、四年正三位内大臣となり五年右大臣に、六年正二位に累進した、十年の正月には伊勢両大神宮を修築して、数百年間廃れた旧制を復し、三月には徳川家康と共に武田勝頼を討て甲信を平げた、六月豊臣秀吉氏をして毛利氏を攻めしめ、自から之を援けんとして京師に赴き、本能寺に宿る、明智光秀信長に恨みあつて本能寺を攻め、信長は明智の臣天野源左衛門の為めに刺されて薨ず年四十九、時に六月二日、朝廷太政大臣従一位を贈らせ給うた、その生涯の中、僧侶の跋扈を怒り之を膺懲し、切支丹を容れて信教の自由を許し、南蛮寺を建立し、或は安土城を築いて経営の力を発揮するなど、画材となるべきもの殊に豊富である、その信長の像は、京都大雲院にある、なほ信長の事跡を描いたものに左の諸作がある。

川口呉川筆  『南蛮寺の信長』      第九回帝展

磯田長秋筆  『信長が訪れた元信の家』  第十回帝展

市原寿一筆  『上総介信長』       同

伊藤竜涯筆  『石曳の信長』       第十一回帝展

松岡映丘筆  『安土山上の信長』     第十五回帝展

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)