策彦

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さくげん


画題

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解説

東洋画題綜覧

臨済宗の名僧、京の妙智院の第三世である、名は周良、怡斎或は謙斎と号す、管領細川氏の家臣井上宗信の第三子で、はじめ鹿苑寺に心翁等安を師とし内外の典籍を学び、百家の学に通じ永正十八年天竜寺で得度受戒し、天文六年大内義隆、博多の新篁寺の碩鼎を遺明使とするや策彦を副使として発せしむ、八年四月肥前の五島を発し翌年三月二日北京に入り、使命を畢へ七月帰着し、天文十年再び遺明使となり、十八年四月十八日北京に入り、明の世宗唱和の詩を賜ひ、二つ上林苑の宴に召され、翌年帰朝した、織田信長その有徳を聞て寺領を寄贈し、武田晴信は甲斐に迎へて慧林寺長興寺を住せしめた、又、嘗ては京の等持院、丹波の常照寺、嵯峨の西芳寺、華蔵院、景徳寺、臨月寺、周防の福生寺、鎌倉の円覚寺等に住したこともある、天正七年六月一日天竜寺の妙智院に入寂した、年七十九、『南遊集』その他著書数種あり、詩をよくす、その『晩過西湖』の詩に曰く

余抗門外日将晡、多景朦朧一景無、参得雨奇晴好句、模中模素識西湖。

日茲暮矣興何佳、暗度西湖湖水涯、眼以老羊看不見、六橋風景夢中花。  (日本百科大辞典)

京都妙智院にその画像を存す、国宝である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)