男衾三郎絵詞

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おぶすまのさぶろうえことば


画題

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解説

男衾三郎物語参照。

東洋画題綜覧

絵巻の名、古いものは三巻あるといふが、現に伝へられてゐるのは浅野侯爵家蔵で、東京帝室博物館には模本があり、その巻末には『をぶすま三郎絵巻物一巻、詞書、為氏卿、土佐松平安芸守所蔵』とあり、又古画目録にも『大須磨三郎絵一巻松平ロロロ蔵寛政丙辰入叡覧』とある、浅野本の詞書はすべて七段で絵は五段ある、梗概は

昔東海道の末に武蔵大介といふ大名あつて吉見二郎、男衾三郎といふ二人の子をもつた、二郎は文弱で和歌管絃を好み都より美しき女房を迎へ一女を生み慈悲と名付けて愛育してゐた、その美貌に心を寄するもの少からぬ中に上野の住人難波太郎を婿に迎へる約束をした、弟の三郎は武芸を好み其妻には久目田四郎の娘で姿醜きを迎へ三男二女を挙げた、ある年大番つとめで京に上る途中、二郎は遠江たかし山で七百の山賊に出逢ひ大半は討平げたがその身も深傷で仆るゝに至つた、急を聞き馳せつけた三郎に二郎は妻と娘のことを托し所領三十六ケ所を与へ唯一ケ所を妻と娘の為めに残すやう遺言したが、三郎は約を踏まず二郎の妻と娘を虐待する、難波太郎がそれを案じて駆付けたが三郎の妻が拒んで入れず、二人は世を去つたことゝ思ひ卒塔婆を建てゝ諸国修行の旅に出る、後、国司慈悲の身の上を聞いて之を譲受けやうと三郎の邸に赴くと、三郎夫妻相謀つて慈悲の身代りに我が娘を出す、国司は思ふ人ならぬを見て心楽しまず悄然として三郎の邸を去り、思ひあまつて

二葉より緑かはらでおひたゝむ子の日の松の末ぞゆかしき

おとにきくかりねの井の底までもわれわびしむる人をたづねむ

と二首の歌を詠じた。

浅野本は之で終つてゐるので結末は知り難い。筆者は土佐隆相、詞書は二条為氏といふ、用筆やゝ細勁で、着色も濃厚に過ぐるの弊なく其人物の活躍する状を始めとして家屋樹法等に見るべきものがあり、鎌倉末葉か南北朝頃に於ける製作と認むべきが如く、中世に於ける絵巻物の一箇の標範に数ふべきものであらう。  (日本百科大辞典)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)