守貞謾稿と浮世絵から見る江戸の年中行事

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総合

守貞謾稿とは

江戸後期の風俗誌喜田川守貞著天保八年(一八三七)に記録を始め、嘉永六年(一八五三)成立。その後慶応三年(一八六七)頃まで加筆。江戸時代の風俗に関する考証随筆であると同時に、近世風俗の百科事典的意味を持つ大著。別名「近世風俗誌」は活版本が出されるときつけられた名称。(『日本国語大辞典』)

また筆者である喜田川守貞については不明な点が多く、『守貞謾稿』の概略に記されていることより多くのことはわかっていない。

一月

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(左:国貞 「鳥追の図」) (右:国貞 「鳥追の図」 「糸遊」)

鳥追い

 鳥追は女乞食、編笠をかぶり、びんざゝらを摺りて祝語を唱へ、あるひは田圃の鳥を追ふ唱ふ。これを鳥追と云ふ。今世江戸のみ鳥追あり。常平、女太夫と称し、菅笠をかぶり、三絃を弾きて銭を乞う女非人、元日より十五日まで、衣服平日と同じといへども、新綿服を着し、常のごとく紅粉を粧ひ、ただ平日に異なるは、編笠を着し、三絃の唱歌を異にす。(『近世風俗志』)  元々は田圃に来る害鳥を追い払うための農村の農耕儀礼であったが、時代を経て、女性が門の前で三絃を弾いて銭をもらう門付け芸の一つとなった。この芸を行う女性は女太夫と呼ばれ、いわゆる「遊芸人」と呼ばれる人々であった。平時も行われていた芸だが、正月時は普段の菅笠ではなく編笠をかぶって行い、この編笠をかぶっている時を特別に鳥追いと呼んだ。

二月

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(左:広重「江戸自慢三十六興」「王子稲荷初午」) (右:周延「江戸風俗十二ケ月の内」「二月」「初午稲荷祭之図」)

初午日

「諸国ともに稲荷明神を祭る。(中略)江戸にては、武家および市中稲荷祠ある事、その数知るべからず(武家、および市中巨戸、必ずこれあり。また一地面、専ら一、二祠これあり。これなき地面ははなはだ稀とす)。諺に、江戸に多きを云ひて、伊勢屋・稲荷に犬の糞、と云ふなり。今日、必ず皆この稲荷祠を祭る。」  

初午の祈願とはもともと五穀豊穣を願ったものだったが、初午の早く来る年は火事が多いなどの迷信と結びついて、火防せ祈願が行われたり、子供の疱瘡の治癒を祈願するなど、神社毎に伝わる御利益も一緒に祈願された。 


「正月下旬以来、太鼓を担ひ、市中を売り巡る。これ屠児らなり。太鼓と呼ばず、撥をもつて太鼓を拍ち行く。皆今日の所用なり。」(『近世風俗志』)  

士農工商の身分分けが徹底され、定職に就くことがほとんど義務である江戸時代においては、前述の「鳥追い」しかり、定職についていない「遊芸人」の人々のハレの日に担う役割は大きかったのではないか。

三月

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(左:広重「東都三十六景」「洲さき汐干狩」) (右: 湖龍斎「雛祭」)

三月三日

「上巳と云ふ。また桃花の節なる故に、婦女子は桃の節句と云ふ。今世、今日、大坂は住吉、江戸は深川洲先等に汐干狩群衆す。」 「けだし古、民間には、紙、土偶等を並べ、諸器も木葉・蛤殻等を用ふの類なるべし。近世まで雛祭には、物を供ずるに蛤殻を用ひしと聞く。今三都は蛤を供すも、昔殻を用ひし遺志ならん。ある古老曰く、昔の雛遊びの調度は質素にて、今世のごとき善美用ひず。飯器皆、蛤貝を用ふ。宝暦頃よりやうやく廃して、貧民の児のみこれを用ふ、云々。これ民間のことなれども、貧戸のみならずこれを用ふ。宝暦後も貧家の児は、なほ蛤殻を用ひしなり。」(『近世風俗志』)  

蛤の殻を器として用いる以外にも「浅葱膾」といって浅葱とあさりを、みそであえたものが雛人形へのお供えとされた。この貝類を供える風習と結びついて江戸庶民のレジャーとしての潮干狩りが生まれたのではないか。

四月

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(左:英泉「十二ケ月の内」「四月 ほとゝきす・かつほ」) (右:春信「更衣」)

四月朔日

「更衣と称し、今日より五月四日に至り、袷衣を着す。これに因り、今、苗字に四月一日と書きて、わたぬきと訓ずなり。」

「今日以後、初漁の松魚を、江戸にては特にこれを賞す、目して初松魚と云ひ、あるひは鰹の字を用ふ。ともにかつをと訓ず。先年は一尾価二、三両とす。近年やうやくこれを賞すこと薄きか、価金一、二分に過ぎず。」(『近世風俗志』)  これに関しては別項「生業下」にも同じような一文がかかれており、初鰹文化への庶民の意識の移り変わりがうかがえる。

五月

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(左:英泉「十二ケ月の内」「五月 くす玉」) (右:豊国「江戸自慢三十六興」「両こく大花火」)

五月五日を端午の節と云ふ

天平十九年五月、詔して、昔は端午の節には菖蒲をもって縵とす。此来すでにこの事を停めたり。今より後、菖蒲の縵にあらずは宮中入るゝことなかれ、云々。また、『延喜式』に曰く、五月五日、天皇、騎射ならびに走馬を観そなはす。所司は御座を武徳殿に設け、内外群官皆菖蒲鬘を著す、云々。今日菖蒲を用ふことかくのごとし。また近世の印地打は騎射の遺意なるべく、また藤森宮等、今日の祭祀走馬あり。(『近世風俗志』)

いつかの節会は奈良時代以降、毎年五月五日に朝廷で行われた年中行事の一つ。天皇が武徳殿に出御されて宴会があり、群臣に薬玉を賜わり、大膳寮から粽(ちまき)が献ぜられた。これに参列する人々は菖蒲を鬘につけ、終わって騎射が催された。中世以降宮廷での儀式は廃れたが、幕府ではこの日を祝日とし、菖蒲を屋根にさし、菖蒲枕、菖蒲酒などを用いて祝った。(『日本国語大辞典』)

五月二十八日 浅草川川開き

今夜初めて、両国橋の南辺において花火上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群衆す。今夜より、川岸の茶店、夜半に至るまでこれあり。軒ごと、絹張り行燈に種々の絵をかきたるを釣り、茶店・食店等、小提灯を多く掛くる。茶店、平日は日暮限りなり。今日より夜を聴す。その他観場および音曲、あるひは咄・講談のよせと云ふ席等も、今日より夜行を聴す。今夜大花火ありて、後納涼中、両三回また大花火あり。その費は、江戸中、船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり。納涼は専ら屋根船に乗じ、浅草川を逍遥し、、また両国橋下につむぎ涼むを、橋間にすゞむと云ふ。大花火なき夜は、遊客の需に応じて、金一分以上これを焚く(『近世風俗志』)


六月

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(左:広重「江戸自慢三十六興」「鉄砲洲いなり富士詣」) (右:豊国 広重「江戸自慢三十六興」「目黒行人坂富士」)

富士詣

「五月晦日・六月朔日の両日江戸浅草、駒込、高田、深川、目黒、四ツ谷、茅場町、下谷小野照(以上八所、ともに江戸の地名なり。並に富士山を模造して、浅間の神を祭れり。平日はこの模山に登ることを聴さず、この両日のみ詣人を登す。けだし駒込を江戸の本所とす)等、富士詣と号して群参す。各所必ず麦藁制の蛇形を生杉枝に纏ひたるを売るに、大小あるとも皆同制なり。富士詣人の方物とす。ある書に曰く、宝永中、疫病行はれ、諸人これを患ふ。時に駒込の納付喜八なる者、麦わら制の蛇を富士辺の市に売る。これを買ふ者皆必ず疫癘の患を除く。これに依りて、以降毎年今日、専らこれを売る。また曰く、当時は、遠近より富士詣での童子、専ら披髪にて行く云々。また曰く、享保二年、始めて鉄砲洲の船松町より、花万度を、毎年今日、駒込富士権現に献ず。」(『近世風俗志』)

「明治時代に入ると、すでにそれも衰えを見せ、『東京年中行事』には、駒込・浅草・深川八幡境内・鉄砲洲稲荷境内・茅場町天満宮境内・神田明神境内・南千住天王社境内・高田の八か所があげられているにすぎない。その後およそ八十年を経過した一九九〇年代、なお盛大な山開きのおこなわれている東京の富士はどれかと問われた場合、駒込富士と浅草富士を筆頭に下谷の小野照崎神社境内・江古田浅間神社・亀戸浅間神社境内・高田水稲荷神社境内などのそれをあげておきたい。」(『江戸東京の年中行事』)

七月

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(左:国貞「豊歳五節句遊」[七夕]) (右:英泉「十二ケ月の内」「七月 七夕」)

七月七日

今夜を七夕と云ふ(たなばたと訓ず。五節の一なり)孝謙天皇天平勝宝七年七月七日、始めて乞巧奠を設くる。(中略)江戸にては、児ある家もなき屋も、貧富大小の差別なく、毎戸必ず青竹に短冊・色紙を付して、高く屋上に建つること、大坂の四月八日の花のごとし。しかも種々の造りものを付するもあり。もつとも色紙・短尺は、ともに半紙のの染紙なり。かくのごとく、江戸にてこのことの盛んなる、および雛祭の昌なるは、市中の婦女、多く大名に奉公せし者どもにて、とかくに大名奥の真似をなし、女に係る式は盛んなるなり。女式は昌なり。作り物、昔は家々自造して興とす。今は、ほゝづき形、帳面の形、西瓜を切りたる形、筆形等、また机の引き出しより灸の出たる形など売る。しかれども、稀に自作して種々の形を付するもの、往々これあり。作り物、多くは竹骨を用ひ、紙を張る。梶葉、くゝり猿、瓢等は、紙にて切りたるのみ。作り物は全形を模す。(『近世風俗志』)

武家奉公が嫁入り前の礼儀作法の習得や・箔付けのための理想とされる江戸では、必然的に武家奉公経験者の女性が多くなる。そのため武家型の年中行事を真似して華美な飾りつけをする家が多くあった。

八月

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(左:英泉「十二ケ月の内」「八月 月見」) (右:豊雅「風流十二月 八月」 )

八月十五夜賞月

三都ともに、今夜月に団子を供す。しかれども、京坂と江戸と大同小異あり。江戸にては、机上中央に三方に団子数々を盛り、また花瓶に必ず芒を挟して、これを供す。京坂にても、机上三方に団子を盛り供すこと、江戸に似たりと云へども、その団子の形、図のごとく小芋の形ちに尖らすなり。しかも豆粉に砂糖を加へ、これを衣とし、また醤油煮の小芋とともに三方に盛ること、各十二個。閏月ある年には、十三個を盛るを普通とす。江戸の俗、今日もし他に行きて酒食を饗さらるか、あるひは宿すことあれば、必ず九月十三日にも再び行きて、今日のごとく宿すか、あるひは酒食を饗さるゝこととする人あり。これをなさざるを片月見と云ひて、忌むこととす。俗諺のはなはだしきなり。片付身と云ふことを忌むなるべし。この故に大略、今日は他家に宿らざることとす。(『近世風俗志』)


九月

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(左:国貞「豊歳五節句遊」 [重陽の節句]) (右:英泉「十二ケ月の内」 「九月 縁日の菊」)


重陽の節

『延喜式』に曰く、九月九日、神泉苑に御し、菊花宴を次侍従已上および文人に賜ふ、云々。また平城天皇大同二年九月、神泉苑に幸し、琴歌間奏す。四位以上ともに菊花を挟む、云々。伊勢貞丈曰く、「雑令」に曰く、およそ正月一日、七日、十六日、三月三日、五月五日、七月七日、十一月大嘗会日、皆節日となす。貞丈按ずるに、九月九日も本は節句なり。しかれども、これを止められにけり。『続日本紀』大宝二年十二月甲午、勅に曰く、九月九日、十二月三日、先帝忌日なり。諸司まさにこの日、よろしく廃務すべしと見へたり。それより昔は節日なり。『日本紀』天武十四年九月九日の宴に見へたり。大坂にては、今日も女子等、雛を祭る者あり。しかれども、必ずとせず。また上巳のごとくにはあらず。調度など略して飾らず、夫婦雛のみを祭り、あるひはわづかに調度を出すのみ。京都にもかくのごときか。江戸は、さらにこの行なし。(『近世風俗志』)


十月

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(左:国芳「見振十二おもひ月」「十月」「十一月」「十二月」) (右:周延「江戸風俗十二ケ月の内」 「十月」「豪商恵北寿講祝の図」)


恵比寿講

十月二十日今日、京坂にて誓文払と云ふ。江戸にて、恵比寿講と云ふ。京坂にては、ただ呉服・木綿・古着等、大小買ども蛭子神を祭り、家内もこれを祝ふ。今宮等に参詣す。他商にては、祭祀せざる者多し。(中略)江戸にては正月十日に祭らず。諸商家ともに、今日毎戸蛭子尊を祀り、親族および賈道得意の輩を会して宴すること盛んなりしが、天保以来、全く廃せざれども、前年には及ばず。けだし、蛭子神に参詣する所、これなし。(『近世風俗志』)

江戸のはやり歌に「十日えびすの売り物は、はぜ袋に取鉢・銭叺、小判に金箱・立烏帽子・湯出蓮・才槌・束ね熨斗、笹をかたげて千鳥足」とあり、国芳の絵はそのはやり歌を描いていると思われる。

また恵比寿講の前日には、お供えを売る「腐れ市」(「べったら市」とも)が大伝馬一丁目で開かれた。名前の由来は定かではないが、喜田川守貞は「戎神に備ふ掛鯛も鮮やかなるのみにあらず、鮮ならざるをも売りしより、この名を負ひしものならん」と推測している。

十一月

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(左:広重「江戸自慢三十六興」「酉の丁銘物くまで」) (右:豊国「十二月ノ内」「霜月酉のまち」)

酉の日

江戸にて今日を酉の町と号し、鷲大明神に群詣す。この社、平日詣人なく、ただ今日のみ群詣して富貴開運を禱ること、大坂の十日戎と同日の論。また群詣も比すべくして、しかも十日戎の盛に及ばず。この日、江戸四民男女専ら参詣す。けだし熊手を買ふ者は、遊女屋、茶屋、料理屋、船宿、芝居に係る業躰の者等のみこれを買ふ。一年中天井下に架して、その大なるを好とす。正業の家にこれを置く事を稀とす。大坂十日戎の小宝、同意といへども、大小賈とも必ずこれを置くなり。今日参詣の人、神棚等にこれを飾り家業繁昌の兆とす。これを表するものを、惣じて縁起物と云ふなり。青竹製のさらひに宝船・米俵・金箱・包金・的矢・しめなわ・お福仮面・玉茎・大黒土像・鶴亀等の類を付する。大なるは長さ一丈ばかり、小なるは一尺ばかりなり。小なる物にはお福仮面のみを付する。(中略)また芋魁、かしうだまともに笹に貫きうる。(『近世風俗志』)  

十二月

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(左:広重「江戸自慢三十六興」「浅草年之市」) (右:広重「三都名所図会」「浅草金竜山年ノ市」)

年の市

門松・注連縄を初め、神棚および祭神の具、その他種々正月の調度を売る。十二月十五日、深川八幡。十七日、浅草寺、十八日、同所。蓑市と云ひ、ともに年の市なり。この両日を最も盛んとす。二十日、神田明神。二十四日、愛宕。二十五日、麹町天神。二十六日より晦日に至り、日本橋四日市、その他諸阡陌にてこれを売る。『塵塚談』に曰く、浅草観音の市、十二月十七日、八日両日なり。諸人正月の飾りの物を、吉凶を祝ふ、この市にて求むることなり。ほかに江戸に市なし故に並木町より雷神門内までは、老人・小児の通行思ひもよらず。俳句に、市の人人より出て人に入る、と云ふ句もありしに、近年に至り、神田明神・深川八幡・芝愛宕・糀町天神に市始まり、人も相応に出て賑やかなり。麹町はわけて群衆なす由。かく故にや近年、観音の市、先年よりは淋しきやうに見ゆるなり。(『近世風俗志』)

(広重の絵の「金龍山」とは浅草寺の山号。) 酉の市と同じく現在でも旧暦と同じ日付で行われている数少ない年中行事のひとつ。

まとめ

上巳の節句や端午の節句など、根が朝廷にある「有職故実」とは違い、根を庶民の町文化にもつものはお上の方針ひとつで吹き飛んでしまうものである。しかし、現在でも、変わらず昔からの日程で行っている行事は数多くあり、(年の市や酉の市)また、日にちは旧暦から新暦にあわせたものながら、執り行うものもある。(富士詣や両国川開き)はるか二百年前にも行われていた事が、綿々と受け継がれ、昔と同じようにそこにある。ここだけを見ても、江戸の町に暮らす人々がどれほどにその年中行事を愛していたのかを察することができるのではないか。

参考文献

『守貞謾稿』

『近世風俗志』 (校訂者)宇佐美英機 2001年 岩波書店

『江戸東京の年中行事』 長沢利明 1999年 三弥生書店

『江戸年中行事図聚』三谷一馬 1987年 立風書房

『江戸の庶民生活・行事事典』渡辺信一郎 2000年 東京堂出版

『年中行事大辞典』 2009年 吉川弘文館