大江定基

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おおえさだもと


画題

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解説

画題辞典

大江定基は齊光の子なり、夙に家業を継ぎて文章を善くす。天元中父祖の功を以て蔵人に補せられ、三河守となる。初め赤坂の娼力寿を得て之を寵し、遂に之を家に納れて妻を逐ふ、已にして力寿病んで死ず、定基その屍を抱て号哭し斂葬せざること数日、次いで之を瘞す、因って人生の無常を悟る、会々女子の鏡を鬻くものあり、定基其匣を開きて之を見るに、和歌あり、曰く、「今日までと見るに涙のます鏡馴れにし影を人に語るな」定基深く之れを●み物を給して去らしむ。かくて遁世の念愈々切に、永延二年遂に剃髪して僧となり如意輪寺に入り、寂心に師事し名を寂昭と改む。適々出でて食を乞い出離の妻の家に到る、妻食を与えて姍笑す、寂昭自若たり。又延暦寺の源信に就きて道を講じ、夏に宋に遊ばんとす、其母恩愛の情を葉てゝ道の為めに之を督励す、寂昭即ち長保四年を以て宋に渡り。宋主に謁見し、斎らす所の仏像を献じ、又問わるゝ所に答ふ、宋主之を上寺に館せしめ号を円通大師と賜い、三司丁謂をして之を遇せしむ、寂昭渡宋に先ち師源信に台宗問目二十七条を託され之を南湖の智礼に質す、答釈成るに及び持して将に帰らんとす。謂、姑蘇山水の美を説きて留らんことを請ふ。寂昭即ち人をして答を源信に送らしめ、自ら呉門寺に留まり戒律精至す、道俗帰向するもの多し、長元七年宋に寂す。

大江定基を画くもの東京帝室博物館に岡田為恭筆あり、円通大師呉門隠栖図は富岡鉄斎の作るもの多し、又宋に於て当代の文人と雅集せしことは西園雅集の名を以て画かる、その条を見るべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

延暦寺の僧、斉光の子、夙に家業を継ぎ文章を善くした、天元中父祖の功を以て擢でられて蔵人に補せられ尋で参河守に任ぜらる、初め赤坂の倡力寿を得て之を寵し遂に妻として婦を逐ふ、適々力寿病で死す、定基その屍を抱て号哭しこれを葬らざること既に数日、漸くこれを嫌厭する情を生じて初めて之を埋めた、これから深く人生の無常を感じた、会々鏡を売る女があつた、定基その匣を開いて見ると、中に一首の和歌が記してある、曰く

けふまでと見るに涙のます鏡馴れにし影を人に語るな

と、定基心に深くこれを愍み物を与へて其貧を救つてやつたが、これより益々遁世の志を深め、永延二年遂に薙髪し僧となり如意輪寺に投じて僧寂心を師として事へ、名を寂昭と改めた、寂心は即ち大内記慶滋の胤である、寂昭偶々托鉢に出で、ある家に食を求めた、それは曽て己が去つた妻の家であつた、妻は出で、食を与へながら冷笑す、寂昭は自若として之を喫した、又、延暦寺の僧源信(恵心僧都)に就て道を学び私かに入宋の志あり、母を訪ねて其志を語ると、母は恩愛の絆は絶ち難いが道を究むる為めには何ぞこれを遮らうと励ましたので寂昭大に喜び、願文を作つて母の為めに法華八講を宝寺に修し、長保四年途に宋に赴く、これより先源信『台宗問目廿七条』を作り、寂昭の入宋を機として南湖の信智礼に致し質さしめた、智礼ここに於て大に寂昭を礼遇す、宋の王も延見して皇事の事を問ふ、寂昭紙筆を以て之に対へ、齎らす処の仏像を献じた、宋の王大に喜び紫衣束帛を贈り上寺に館せしめ号を円通大師と賜ふ、そして三司使丁謂をして之を遇せしめた、智礼の答釈が出来たので、寂昭は之を携へ帰朝しやうとしたが、丁謂之を留めやうと姑蘇山水の美を説く、寂昭これが為め遂に帰朝の意を翻へし呉門寺に留まり、答釈は人をして源信に送ちしめ、なほ戒律精至し、長元七年宋に於て入寂した、臨終の詩や和歌が世に伝へられてゐる。  (大日本史)

定基の宋にあるや、彼地の文人と西園に会して雅会を催す、これを世に『西園雅集』と呼び好画題となつてゐる。(其項西園雅集参照)

大江定基を画ける作

冷泉為恭筆             東京帝室博物館蔵

富岡鉄斎筆  『円通呉門隠棲図』

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)