四君子

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しくんし


画題

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解説

画題辞典

菊、蘭、梅、竹の四種の花卉を四君子と称す。支那に於ては、元、明、清各代に亙り、高人志士、之を以て自己の訓戒となし、盛に画かる。本朝に於ても其風を汲める文人画家の間に最も好んで画かるゝ所たり。世に各家の作の多きこと殆んど挙ぐるに堪へず、此流の画家、花葉幹茎の画法を習得するにも、先づ此の四品より始むるを常とす、随って蕪村、大雅、竹田、梅逸、竹洞、華山、椿山の輩の画手本として、之を画きたるものも亦少しとせず。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

の四種をいふ、何れも草木中の高潔君子の如きものの謂、元時代より人々これを尚び、絵画に於ては先づこれより始むることとなつてゐる、四君子を定めたるは何人であるか詳かでない、小室翠雲の『四君子画冊』小引に曰く、

孔子衛より魯に帰る時、幽谷の中香蘭の独り茂げるを見給ひ、喟然として嘆じて曰く、蘭は当に王者の香たるべし、然るを今衆草と伍すとて、琴を援て之を鼓し『倚蘭操』(曲名)を作れり、太古黄帝の時鳳凰あり、帝の桐樹に棲み帝の竹実を食せり、後伯夷叔斉は竹を以て姓と為せり、降りて晋の王子猷は室宅中に寄居して竹を種ゑしむ、人その故を問へば、曰く『何可一日無此君』と答へたり、又王陽明の如きは竹に君子の道あり君子を以て之を称す、其名に愧ぢずと曰へり、楚辞に、朝に木蘭の墜露を飲み夕に秋菊の落英を喰すと歌ひ、晋の陶淵明重陽に隔なく籬辺に座し菊を摘み把に盈つ、偶々白衣の人の至るを見て是王弘が福を送るなりとして菊の吟詠あり、周茂叔は『菊は花の隠逸なる者也』と称せり、梅には広平の賦あり何遜の吟哦あり、宋の処士林和靖は梅数百株を孤山に種ゑて『梅妻鶴児』の語あり、後世文人墨客、或は詩賦に或は画筆に『蘭竹梅菊』を題目とし、終に四君子の称あり。云々

四君子を画けるもの、大雅、蕪村、崋山、椿山、梅逸、竹洞、竹田、対山その他南画家の画手本などに極めて多いが、就中、崋山の『四君子自画賛』(神戸鹿峰氏旧蔵)は逸品として聞えてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


梅、の四種をいふ、うめ「」の項に出づ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


うめ「」たけ「」きく「」らん「」各項を見よ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


を称す。(各項参照)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


、梅、の四種を画く。(「」の項参照)      

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)