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司馬芝叟 - 版の履歴
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天明-文化の時代の大阪の浄瑠璃作者、歌舞伎狂言作者、諸本作者、講談師。本名雄崎勝助と言う。通称司馬屋勝助、別号司馬叟(しばそう)、し葉叟、芝屋芝叟。『京摂戯作者考』、『伝奇作書』等によると、肥前長崎の生まれで、母は丸山の遊女であり、父は、来舶の正国人であるといい、また『南水漫遊捨遺』、『戯財録』等によると、独笑庵の倅(せがれ)であるという。師承は明らかでないが、『京摂戯作者考』には、「儒に非ず、医に非ず、一畸(き)人なり」とある。浄瑠璃作者としては天明三年正月江戸肥前座上場の「石田詰将棋軍配」に「し葉叟」の名を連ねたのが、最古で、その後帰阪したと見え、同六年六月大阪東の芝居の「比良獄雪見陣立つ」には、芝屋芝叟と著し、翌七年十月竹本座の「大功艶書合」に好評を得、同八年八月江戸肥前座の「[[花上野誉石碑]](はなのうえのほまれのいしぶみ)を作って順に名前をあげ、正本には「しば芝叟」と改めている。ついで寛政五年三月大阪大西芝居の「太平鳴声の風諷」を始めて独作したが、爾来文化(じらいぶんか)にかけて活躍し、「唐錦艶書功(いさほし)」(寛政六年二月鶴澤座)、「敵討優曇華亀山(うきげのかめやま)」(同年十月竹本座)、「忠臣一力祇園署」(同年八月豊竹座)、「箱根霊験躄仇討」(享和元年八月竹本座)、<br />
「新吉原瀬川復讐(あだうち)」(文化三年三月豊竹座)等を執筆した。また一方狂言作者も兼ね、寛政十年十一月に大阪中の芝居に雄崎勝助の名を連ねたのが初めてらしく、立作者の地位を占めたのは享和二年の角の芝居と、文化元年中の芝居等で、芝屋勝助の名を用い尾上鯉三郎に随伴していた。(中略)文化末年頃までに亡したらしい。-(引用)『日本人名大事典(新撰大人名事典)第三巻』<br />
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〈引用文献〉<br />
『日本人名大事典(新撰大人名事典)第三巻』 下中邦彦 平凡社 一九三七年<br />
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