切支丹

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きりしたん


画題

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解説

東洋画題綜覧

キリシタンは葡語クリスタオ(基督教)の転、初は吉利死丹と書いたが、将軍綱吉の吉の字に憚つて切に改めたといふ、(海録一)或は契利斯旦と記したものもある、室町時代の末世、西洋から日本に伝播した天主教の称、其の教中のジエスウイツト派である、天文年中、葡萄牙人我が九州に来り、伴天連、以留満など云ふ宣教使を以て其教を弘め、九州の大小名、士庶の其の教に帰依するもの多く、永禄中、京都に入り、天正九年西班牙人も来り加はつて、愈々盛に行はれ、後、江戸にまで及んだ、全国諸所に教会堂を建て、貧民に施金し、施療し、全国の信者三十余万人に達したといふ、国を奪はうとする陰謀ありと認められて、徳川幕府、此の宗門を厳禁し、其の宣教使及び内国の信者を海外に放逐し、宗旨を改めぬものは磔殺し寛永十六年全く滅絶した。  (大言海)

野田九浦筆  『禁教切支丹』  第十二回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)