隠元禅師

提供: ArtWiki
2021年12月7日 (火) 18:33時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

いんげんぜんじ


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

隠元は本朝黄檗宗の開祖なり。明福州の僧、俗姓は林、名は隆琦、隠元は其の字なり、万暦二十年に生れ、二十九歳の時母を失い、閩中の黄檗山鑑源和尚に投じて僧となり、精修して奥を極め、遂に臨済の正伝を受け、径山寺費隠の後を受く。我が承応元年、将軍家綱禅刹創剏の志あり高僧を支那に求むるや、三年、召に応じて来朝し、将軍に謁し寵遇を受く、寛文元年黄檗山万福寺を山城宇治に開く、後水尾法皇厚く之に帰依し玉う。実に本邦黄檗宗の初なり、延宝元年、大光普照国師の号を賜わり、同年四月三日八十二歳を以て寂す。黄檗語録、隠元法語、詩集等あり、万福寺塔頭松隠堂に僧元規筆画像を伝う。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

隠元禅師は我が国に於ける黄檗宗の始祖、名は隆珂、隠元はその号である、大明福州福清の人、万暦二十年十一月四日を以て生れた、俗姓は林氏、父は徳竜、母は龔氏、八閩の豪族で世々詩書を以て名がある、兄弟三人あつて禅師はその末弟である、六歳の時、父遠く楚に遊んで帰らず、二十歳の時感ずる所あつて仏教を学ばんと志し、諸方に走り、且つ南海の普陀山に登り、観音を拝して父を尋ぬるの願を発し、郷に帰らぬこと久しく、漸く帰郷して母に謁した、母を亡つた後、泰昌九年廿九にして黄檗山に入り剃髪して鑑源禅師に師事し、これより諸方に雲参して大に禅機を究めた、崇禎七年精修その効を収め遂に印可を承けて臨済の正伝を得た、時に年四十三、同十年黄檗山の正統を継ぎ在職七年一山の宗風大に揚がる、後諸処を巡錫し再び黄檗山に住して法門の宣布に努めた、順治十一年、日本興福寺逸然の東渡来化を請ふの誠心に感じ継を慧門に譲り、大眉独湛南源独吼の諸弟子とゝもに長崎に来航した、時に我朝の承応三年七月六日であつた、逸然檀徒と共に之を迎へ、翌年崇福寺に入つた、諸僧雲集して大に法門の玄旨を叩く、明暦元年、摂津富田普門寺の竜渓迎へて寺主とした、碩徳大官の参謁するもの多く、門前常に市を成す、万治元年東上して麟祥院に寓し将軍家綱に謁し、法を老中に説く、同三年山城国宇治大和国の地を賜ひ翌年寺塔を建てた、これが黄檗山万福寺である。  (仏教辞林)

隠元禅師の画像として伝はるものに左の諸作がある。

喜多元規筆            長崎聖福寺蔵

同  宇治松隠堂蔵

心越禅師筆  (隠木即三幅対)  早川千吉郎氏旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)