「伍子胥」の版間の差分

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2021年12月7日 (火) 19:15時点における最新版

ごししょ


画題

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解説

東洋画題綜覧

支那春秋時代に於ける呉国の名臣、名は員、初め楚の平王に仕へたが、父奢、兄尚、共に平王の為めに殺されたので、呉国に逃れて復讐を図り楚を伐つて平王の屍を発きこれに鞭つて怨を報じた、後、呉が越を敗り、越王勾践、呉に賄して和議を結ばうとした時、子胥は堅く止めたが、呉王夫差これを聴かずして許した、既にして夫差斉の喪に乗じこれを伐たんとしたので、子胥また諌めたが夫差聴かず、夫差の軍勝つに及び愈々子胥を疎んず、子胥また窃かに夫差を怨んだので夫差大に怒り属鏤の剣を与へて自殺せしめた、子胥その死に臨み遺言して曰ふ、吾が眼を抉り呉の東門の上に懸けよ、越寇の入つて呉を滅す所を見やうと、そして自らその首を剄ねた、夫差大に怒て其の屍を鴟夷(馬革製の酒器)に包んで川に棄てさせたが、九年の後、呉は越の為めに滅された、呉人これを憐み、祠を江上に建てゝこれを祀つた、胥山がこれである。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)