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	<title>Z0688-1-016 - 版の履歴</title>
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		<title>2025年5月7日 (水) 00:00にWikiSysopによる</title>
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		<updated>2025-05-07T00:00:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=総合=&lt;br /&gt;
==和漢百物語　華陽夫人==&lt;br /&gt;
 [[画像:Z0688-1-016.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===翻刻===&lt;br /&gt;
「華陽婦人」&lt;br /&gt;
梵国の半俗太披華陽を愛して艶香に反し既に国政をみだして閻浮台を寧魔麿す豈&lt;br /&gt;
與令にいりて菩戒をさまたぐるものから国民大に患て竟に大乱をそ引いだしたり&lt;br /&gt;
菊葉亭露光記&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絵師：芳年 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
落款印章:一魁斎芳年画 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
改印：丑二改&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
版元：ツキジ大金&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====【梗概】====&lt;br /&gt;
華陽婦人&lt;br /&gt;
伝説上の妖婦。正体はインド、中国、日本の三国において悪逆ぶりを発揮したとされる金毛白面九尾の狐。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
紀元前11世紀頃中国殷の国に紂王とその妃妲己がいた。紂王は妲己に骨抜きにされており妲己の思うままに酒池肉林の乱痴気騒ぎや無実の人々を残虐な処刑法での虐殺を繰り返した。これに対して反乱をおこした後の周の武王となる姫発は殷を滅ぼし、その際妲己は武王の軍師の太公望によって照魔鏡という道具で正体を看破され、剣で引き裂かれて息絶える。&lt;br /&gt;
それから約７００年後九尾の狐は今度は華陽婦人という女の姿に転生し、天竺のマガダ国の班足太子にとりいって妃となり千人もの人の首を切らせるなど、またも虐殺を始める。あるとき狩にでていた太子は寝ている狐をみつけ矢で射ると矢は狐の頭をかすめ、狐は驚いて逃げ出していく。太子が帰ってみると華陽夫人は頭を怪我していた。そこで天竺での最高の名医耆婆が診察したところ脈から夫人の正体は狐だと見破る。これに焦った夫人は耆婆が横恋慕するために陥れようとしているのだと主張し耆婆との問答に勝ちなんとか周囲の信頼を得ることに成功する。しかし諦めない耆婆がとってきた金鳳山の薬王樹の枝によって遂に正体がばらされて北の空に飛び去っていく。&lt;br /&gt;
再び中国武王より12代後の幽王の代褒の国に褒似という絶世の美女がいた。褒国により幽王に献上された褒似は幽王の寵愛をほしいままにした。ところが褒似は一切笑わず、幽王はなんとか褒似を笑わせようと考えていた。ある日非常時の召集を告げる烽火が誤ってあげられ、意味もなく集まってきた諸侯たちの滑稽な姿を見て褒似は笑顔を見せた。そのため幽王はくりかえし無意味に烽火をあげ諸侯を集めて褒口を笑わせたが諸侯たちの不満は募っていった。そして不満が募った一部の諸侯と幽王の元妻の申后の一族と北方の異民族、犬戒（けんじゅう）の連合軍が反乱を起こした。幽王は烽火をあげて召集をかけたがどうせいつもの嘘だろうと諸侯たちは集まらず結局幽王は処刑され、褒似は姿を消した。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
天平７年、遣唐留学生として唐に渡っていた吉備真備が帰国する船の中に乗り組み、若藻という美しい少女に化けて潜んでいた。日本に着いた妖狐は、人々を惑わしながら諸国を渡り歩きながら数百年を過ごし、堀川院の時代には女の捨て子に化けて、ある過失のために山科で謹慎中の北面の武士・坂部友行に拾われ、藻と名付けられて育てられた。藻は成長するに従って和歌の才能を発揮し、７歳になると宮中にあがり、やがて玉藻前として鳥羽帝の側女に取り立てられて寵愛された。&lt;br /&gt;
　玉藻前が側女に取り立てられてからというもの、鳥羽帝は度々原因不明の病に冒され続けた。陰陽博士の安倍泰親（「安倍泰成」とする文献もある）に占わせてみると、泰親の神鏡に十二単を着た白面金毛九尾の妖狐が現れた。その原因が玉藻前にあることを突き止められ、正体を見破られた妖狐は、東国の那須野が原へと逃げ去り、今度は那須野が原において数々の悪事を働いた。そこで下野の国那須郡の領主・那須八郎宗重は、朝廷に対してこのことを訴え、泰親から妖狐が恐れる神鏡を借り受けた。神鏡の威光に恐れをなしてか、妖狐の悪事は間もなく収まった。しかし、その十数年後、妖狐が再び悪事を働き領民を苦しめるので、朝廷は安倍泰親、安房の国の三浦介義純（「義明」とする文献もある）、上総の国の上総介広常を那須野が原へ遣わして、八郎宗重とともに退治するように命じた。妖狐は、泰親の祈祷と三浦介・上総介によって退治されたが、その瞬間、天が俄にかき曇り、天地は鳴り動き、稲妻が頻繁に起こったかと思うと、その屍は大きな石にと変ってしまった。&lt;br /&gt;
　それから二百数十年後、石と化した妖狐の凄ましい怨念は残り、毒気を放って近づく領民や獣、上空を飛ぶ鳥などを悉く死に至らしめたので、人々はこの石を「殺生石」といって恐れおののいた。災禍が止まないことを憂いた朝廷は、国中の名僧を那須野が原へ遣わせて教化を試みたが、僧達は毒気に当たって皆倒れてしまった。当時、会津の示現寺に住んでいた玄翁和尚（げんのうおしょう・「源翁」とも記される）が遣わされ、長い祈祷の後に玄翁が持っていた杖で石を叩くと、殺生石は砕け散り、ようやく妖狐の霊は成仏した。&lt;br /&gt;
　美人で和歌に秀でていただけでなく、内典・外典・仏法・管弦などの世法に精通し、鳥羽帝の寵愛を一身に受けたとされる玉藻前のモデルとなったと思われる人物には、鳥羽帝の寵愛を受け、また帝の死後、相当の権力を振るったとされる美福門院、鳥羽帝の后で、絶世の美人で、歌人としても名を残し、後に帝と不和となったとされる待賢門院が挙げられる。また、三浦介・上総介によって退治されたときに石に変り、玄翁和尚が調伏したとされる殺生石は、栃木県那須郡那須町湯本に存在しており、現在の殺生石付近は観光地となっているが、かっては那須岳の火山性有毒ガスが噴出し、近づく者を死に至らしめたとされる。&lt;br /&gt;
〔http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index36.html〕&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==江戸歌舞伎の世界での九尾の狐==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌舞伎の世界においても九尾の狐は人気だったようだ。ただ演劇の世界での玉藻前人形浄瑠璃、近松梅枝軒、佐川藤太の『絵本増補玉藻前旭袂』が早く上演され、その影響を受けて歌舞伎が上演されるようになった。江戸時代では鶴屋南北が文化四年（１８０７）年に『三国妖婦伝』を書き、主演は初代尾上松助が好評であった。さらに南北は文政四（１８２１）年に『玉藻前御園公服』を書き、三代目尾上菊五郎が玉藻前を演じた。容姿に優れ、松助のケレン芸を継承した菊五郎にとっては絶世の美女であり空を飛ぶ狐であった玉藻前はまさにはまりやくだった。その中でも特に派手な見せ場は陰陽師阿部泰親により美女に化けていた狐が正体を現すシーンで、このときの飛び去る狐を表現した[[宙乗り]] が見事だったようで評判記『役者早料理』では「白面金毛九尾の狐も此度は以前にまさりて大造りなる宙乗り」「あやうく見ても目が舞うようであった」とほめられている。「玉藻前御園公服」は天保（一八三三）年五月に再演され、その時の菊五郎も、「大詰金毛九尾白面の狐となり中乗り、土間より黄なるのろせ薬のけふりの中にかくるる所奇奇妙妙」（役者三世相）と、妖孤の宙乗りが評価された。&lt;br /&gt;
長谷川勘兵衛は、文政十年（一八二七）四月には、浅草で「三国妖婦伝」の見世物興業を試みた。松助や菊五郎が演じて人気となった玉藻前をの芝居を見世物に仕立てたのである。歌舞伎の舞台をもとに俳優の代わりにからくり人形で見せようとしたが、あまりに大造りすぎて当局の目にとまり、開場まもなく「不埒」とされ、興行停止処分を受けることになってしまった。浅草寺の記録「浅草日記」から　浅草寺に、地所を50日ほど借りたいという願いが出されたが、仕掛けを作っているうちに面積が足りなくなってしまったようだ。文政十年正月、浅草寺に「間口十間奥行十五間、ならびに添地、南の方の吹矢場まで七間半、西の方へ八間」を借りたいとの願書が再提出された。一間を一、八メートルとして計算すると、四八六平方メートルの土地にプラスして一九四平方メートルの地所を要求&lt;br /&gt;
していることになる。「三国妖婦伝」の番付をみると、見物が日本、中国、天竺の三か所の会場を巡る仕組みになっているので、全体として変形したスペースを使ったと思われる。大道具のところに、「千人のせてまはる」と書かれ、また、仕掛けの周囲には「人形数百体」とある。観客を千人乗せて台ごと廻し、たくさんの人形を見物させる仕組みだったと考えられる。観兵衛の「三国妖婦伝」は、翌年には大阪で興行して大当たりをとり、江戸での処分のほとぼりがさめた天保七（一八三六）年には、再度、江戸両国でも興行しているから、面白かったことはまちがいない。(江戸歌舞伎の怪談と化け物)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==九尾の狐の記述==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山海経「獣有り。其の状は狐の如くにして九尾、其の音は嬰児の如く、能く人を食ふ。食ふ物は蟲せられず」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
白虎通「徳至鳥獣則九尾狐見、九者、子孫繁息也」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
延喜式　治部省式「九尾狐、神獣也、其形、赤色、或白色、音如嬰児」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扶桑略記「仁和四年に六条の皇后が病気になったとき、霊狐が西方の方角から現われてより病気が快復した」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黄河の毎年おこす洪水や氾濫を治めて、その功によって帝舜から王位をゆずられた禹は治水工事に熱中し三十歳になっても妻がなかった。あるとき九尾の白狐があらわれて尾を振った。当時塗山では「九尾の狐を見たものは王となり、塗山の娘を娶ったものは家が栄える」という歌が流れていた。果してその後、禹は塗山の女嬌という娘にめぐりあい、王になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・これらの年代に出てくる九尾の狐は、神獣として描かれており、国を乱そうとする邪悪なものではなくむしろ縁起の良いものとして描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代の『海録』においては、古今の文献を紹介して妖獣的な性格と神獣的な両面を表し、『燕居雑話』には室町時代以降に語られるようになる妖魔としての九尾の狐である玉藻前の伝説が紹介され、美人（美女）はみな玉藻前の子孫だとして諸侯は注意すべきだなどという迷信が語られている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮の民話　白骨に小便をかけた男が、その白骨に追いかけられる。白骨は美人に変じて男を惑わし、ついに九尾の狐（クミホ）となって男を喰い殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（殺生石伝説は）室町時代に生まれたもののようで、「神命記」「下学集」などに簡単な記述が見られ、瑞渓周鳳の日記「臥雲日件録」享徳二年（一四五三）の二月二十五日の項にも、客の層から伝え聞いた話として載せられている。それらは、妖孤の力を強調するとともに、武士たちが射殺したところに焦点があり、弓術のための競技、犬追物の起源を語るという性格が強い。こうして関東武士の威厳を示すとともに、京の陰陽師の呪力、僧の行力を語り、一方では、妖狐の活躍の舞台をインドまで広げ、かつ、殺生石とも結び付け、誇大にまで成長させたのである。その成長の過程で、謡曲「殺生石」が生まれ、中世の小説「玉藻前物語」「玉藻の前」「玉藻の草紙」が書かれた。　日本奇談説話伝説大辞典&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===尾に関して===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「封神演技」　だっきは千年妖狐　狡猾的妖孤　九尾ではない　尾は一本　中国妖怪人物事典&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「源平盛衰記」「平家物語」長門本　幽王が亡んだ後、ほうじは尾三つある狐となって古塚に逃げ込んだ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「玉藻の前」しもつけのくになすのに、たけ七いろ、お二つ有、きつね侍り&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
玉藻前㬢袂で九本に　（日本奇談逸話伝説大辞典）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==首==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「玉藻前物語」むかし、はんそくたいしのまつらんとせしところのつかのかみといふは、いまこの、きつねなり、かのきつね、はんそくわうを、たふらかして、千人のわうの、きらせてまつらんとせんとするところにふつほうのいりきによりて、たうしんおこりて、千人のくひを、きらさるあいた、かのきつね、ふつほうを、かたきにして、、、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
班足王の物語は、護国の経とされる「仁王経」の第五護国品に説かれてある。それは外道の師の教唆によって、千王の首を供えて塚の神を祭り王位簒奪をはかった班足王が、般若波羅密の力によって仏道に帰することを物語る。その王位簒奪、王法破壊を助ける存在が「仁王経」の旧訳では塚神、新訳では塚間摩訶迦羅大黒天神であるとされている。　　中世伝承文学の諸相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「絵本玉藻譚」では華陽は班足王をたぶらかして、千人の首をもってこようとさせる。&lt;br /&gt;
→和漢百物語の絵中での生首の描写はここよりきたものではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==絵==&lt;br /&gt;
 [[画像:095.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 [[画像:393px-Prince Hanzoku terrorised by a nine- tailed fox.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
班足王と華陽が描かれたもの。班足王は千人殺しのイメージが強いのかかなり獰猛なイメージで描かれている&lt;br /&gt;
服は当時の海外のイメージで描かれたもので本物とは、ずれたエキゾチックなイメージが前面に押し出されている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（江戸歌舞伎の怪談と化け物　）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また華陽のイメージとしては舞台での宙乗りの見せ場ということもあってか、正体を現して飛び去っていくシーンが&lt;br /&gt;
多く描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 [[画像:08hokusai nisiki18.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 [[画像:08hokusai nisiki05.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==まとめ==&lt;br /&gt;
・九尾の狐物語の成立としてはもともと伝承としての妖狐が朝鮮、日本と伝わっていったのではないか。日本では室町までにかけて、武士、仏教文化の敵役としての性格を与えられ、日本武士、仏教あるいは陰陽師の強さのアピールにも使われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・江戸に入ってから描かれた九尾の狐は室町までのそれよりも残虐な描写（面白い処刑方法を考える、胎児当てクイズの場面）が増やされ玉藻の前より性格（？）が違うように感じられる。江戸期に入ってから三国へとスケールアップしたと同時に俗っぽい描写によりエンターテイメントとしての性格が強まったように感じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・現代でも九尾の狐は多くの創作物等にも登場し、相当な人気を誇っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index36.html&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本未確認生物事典　１９９４　笹間良彦　柏書房株式会社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国妖怪人物事典　１９９６　寅吉達郎　講談社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌舞伎登場人物事典　古井戸秀夫　　白水社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絵本碑史小説　　　大正６　　　大橋新太郎　博文館&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸歌舞伎の怪談と化け物　２００８　横山泰子　　講談社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌舞伎事典　１９８３　株式会社平凡社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原色浮世絵大百科事典　大修館書店&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伝承文学の視界　　昭和５９ 吉田栄治　　三弥井書店&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世伝承文学の諸相　昭和６３　美濃部重克　　和泉書院&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
読本事典　江戸の伝奇小説　２００８　笹間書院&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近代デジタルライブラリー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
			&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>WikiSysop</name></author>
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