無名翁随筆

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続浮世絵類考」とも。無名翁(渓斎英泉)編。

「吾妻錦絵の考」

 東都第一の名産として、他郷の者江戸より帰るには、江戸絵と云て必ず是を求る事となれり。世俗之を一枚絵といふ。

 先に山東醒世翁曰、延宝、天和の比の一枚絵といふ物を蔵せる人ありて、みるに、西の内といふ紙一枚ほどの大きさありて、おほくは武者絵にて、丹、緑、青、黄土をもて、ところまだらに色どり、大津絵の今少し不手ぎはなる物なり。画はみな上古の土佐風にて甚よし。画者の名はしるさずもとより歌舞伎役者、遊女の類ひの姿をかゝず。元禄のはじめより、役者の姿をかきはじむ。丹と桷といふもので色どれり。江戸真砂子六十帖に云、元禄八九年の頃、元祖団十郎鍾馗に扮す、その容を画き刻て街に売る。価銭五文、是より役者一枚絵と称するもの数種を刻すと云。宝永、正徳の比迄、専らにあり。享保のはじめ、同朋町和泉屋権四郎といふ者、紅彩色の絵を売はじむ。是を紅絵と云、夫より色々に工夫して、墨の上ににかわをぬり、金泥などを用ひて、うるし絵と云て大に行る。寛延の比より、彩色を板刻にする事をはじめて、紅、藍、黄、三遍摺なり。明和のはじめ、吾妻錦絵といふもの出来始て、今に至り、ます/\花美を尽せり。或人云、寛文の比は板刻絵なし。大津絵の如く、種々の武者絵をかき画にしてうりぬ。板刻になりしは、延宝の比がはじめなるよし、しかるやいなやをしらず。享和壬戌冬十月記とあり

【山東京伝が蜀山人所蔵の浮世絵類考校訂の追考の巻末にしるして送りしものなり】

 板刻の画は、寛延の比より起りて、天保の今に至る迄、八十余年のものなりとおぼゆ。亦摺込の彩色絵多くありし、と云へり、上方にては今も多し。錦絵の精巧、天明、寛政の比迄は、京、大坂にては等閑のものなりしに、今は江戸にも勝れて佳製多くなりぬ。寛政の始めより、金銀銅粉、雲母入の彩色摺りをはじめしより、後、正面摺、きめ出し等の工風をなせり。近比、狂歌春興の摺物に美を尽し、春毎に互におとらじとて、写真摺、無地金摺などを製しければ、再応是を禁じられたり。是より江戸売買の錦絵に、金摺りは止みたり。

 按ずるに、宝暦、明和の比は、今、切絵と云て、みよし四ッ切りの三遍摺の絵有、是等の類ひ成べし、且は、後大奉書摺となりし、奉書二ッ切を大錦と云、今は、大奉書、中奉書は不用、イヨマサと云紙を用ゆ。合にしきも最上紙を用ゆ。伊予奉書二ッ切を合錦と云へり。みよし二ッ切を小合錦と云う。大錦二ッ切は中錦、合錦二切は中合と云、伊予奉書竪四ッ切をきめと云、其外種々の紙数品、国産の紙を【国紙と云】用ひて、様々の唱へありといへり。

 草双紙も、文化の比より錦絵の表紙となりて、合巻といふものになりぬ。正徳、享保の頃、赤本と云紙数五枚位綴りたるは、唐紙の表紙なりしを、赤く染たる紙になりたり。是を赤本と云。夫より萌黄色の表紙となせしを、青本と呼ぶ。其後、黄表紙となりしをも、青本といふなり。天明、寛政の比、こんにゃく本とて、すきかへしとき色の薄紙表紙を付、半紙ずりにて袋入にしたる草双紙ありし、是より今の画表紙の合巻を製本せしものなり。【今吉原細見五葉の松の製本のみに其体裁を改めず】

 按ずるに、赤本と云ひしは金平本と云。紀逸が黄昏日記に曰、元禄年間の板なり、岡清兵衛は金平本の作者なり、と有り。夫より後、西遊記を訳せし、桃太郎、宇治拾遺の物語より、舌切雀、花咲爺の一期栄えし昔噺しを作り、童蒙の弄と変じ、赤本とはなりけん。 其後還魂紙五枚ヅヽ綴て価を六文に売りし黄表紙となりし比は三四へん摺の絵を切て表題に張しが、享和の年間に、価十文ヅヽになりたり。此比迄は、昔噺又は目出度作りし草双紙なりしが、京伝の滑稽行はれて年毎に奇をあらそひ童の目をよろこばせんとて敵討の物語となり、前後篇を望しより、一年二年と篇を次ぐことになりて、染表紙のうへに錦絵を切抜て張りけり。此頃より、半紙摺となり、或はスンコと云紙にて製す。夫より表紙一面の絵をはり、また是を錦絵の摺付表紙となせしなり【板元江見屋の工風より絵表紙の合巻となれり。文化のはじめなり】是よりいつとなく草双紙の名は廃れて、合巻とのみ呼来れり。近世は、道中双六もさま/\に工風し、美を尽し、千代紙、白粉、歯磨の袋まで、錦絵摺にな らなはなし。美麗を尽すの限りといふべきものなり。