賀陽豊年

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かやの とよとし


画題

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解説

前賢故実

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右京の人。経典や史書に精通し、対策という官吏登用試験で最優秀の成績で通った。節操を重んじ義を守り、不撓不屈であった。理解し合っている友でなければ、かるがるしく交際することがなかった。大納言石上宅嗣が豊年の気風を敬い、彼を芸亭へ招き厚く礼遇した。延暦中、東宮学士に任ぜられた。平城天皇が即位したとき、從四位下に叙せられ、式部太輔に昇進。その後、平城天皇に寵愛された宮廷女官藤原薬子が、しばしば良くないことを進言し、英賢が排斥されるようになった。このようなときであっても、豊年は平素の抱負を守り、時流に靡くことがなかった。しばらくして、平城天皇は病のため皇太弟に皇位を譲り、上皇となって平城宮へ移った。豊年は上皇に随行せず、職務に専念していた。薬子の乱の後、豊年は一時期官職を退いたが、その才能を惜しんだ嵯峨天皇が豊年を播磨守に任命した。播磨守を三年ほど務めていた豊年は、病のため京へ戻り、宇治の別荘で亡くなった。亡くなった日に、正四位下を贈られた。享年六十五歳。

高潔の士の吟

一室何堪掃(一室を掃き清めてそれでいいだろうか) 九州豈足歩(全国を歩き回ることができても十分とは言えない) 寄言燕雀徒(目標の低い者に言葉を寄せる) 寧[焉]知鴻鵠路(高遠な志を持つ人の歩む道を知るわけがない)

(『前賢故実』)