清原夏野

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きよはらの なつの


画題

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解説

前賢故実

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小倉王の五男。小倉王の奏請により帝から清原真人という姓を賜ったのだ。夏野は宮内少輔、讃岐守、伯耆守、下総守を歴任、從四位上の位だった。弘仁十五年、夏野は「各国の朝集使が朝廷に政務報告をするとき、清書する史生に報告内容を任せる場合がある。口頭による国政報告がなく、紙面だけになると国政の実状を把握できず、無益なことだ。伏してお願い申し上げます。国政を報告させる場合、主管長官に一名の史生を付け加え、宮殿の前で自国で滞っている政務について長官に陳情させる。朝廷はその陳情を聞いてから官吏の処遇を決めればよい。宮殿の前で奏上できる者であれば、朝集使でなくても、上京させてその陳情を聞くことにする。逆に、奏上する事がなければ、朝集使であってもその報告を聞く必要がない。」と上奏した。また、「百姓が荒れて廃れた田地を耕作すると、国司がただちに田租を徴収する。これを恐れて、百姓は荒廃した田地の耕作に力を入れないのだ。伏してお願い申し上げます。荒廃した田地を耕す者に対しては、はじめは田租を徴収せず、六年後に法に従い田租の徴収を開始すればよい。」と奏請したこともある。從二位右大臣にまで累進した。承和四年薨去、享年五十六歳。双岡大臣と呼ばれていた。

(『前賢故実』)