柿本人麻呂

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かきのもとのひとまろ


画題

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解説

画題辞典

柿本人麿は歌聖なり。持統、文武の両朝の間に出づ、新田部、高市の諸皇子と遊び、又その駕に随って紀伊、伊勢及吉野に行き、又近江、石見、筑紫の諸国に遊び、過ぐる所必ず所詠あり、石見に終るという。同国美濃郡に柿本神社あり、和歌の後世に伝わるもの多かるが中に、「あしひきの山鳥の尾のしたりをの なかきなが夜をひとりかもねん」の一首、最もよく人口に膾炙せり、後代まで歌聖と崇められしことゝて、其像の画かるゝもの甚だ多し。

伝藤原信実筆(京都帝室博物館、岡崎正也氏、根津嘉一郎氏所蔵)、筆者不明室町時代作(東京帝室博物館所蔵)、宅磨栄賀筆(赤星鉄馬氏旧蔵)、狩野探幽筆(松平子爵所蔵)、住吉具慶筆(高橋男爵所蔵)、俵屋宗達筆(中村某氏所蔵)等特に知られたるものなり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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天足彦国押人命の子孫。持統天皇と文武天皇のニ朝に仕えていた。冠位および履歴が不詳。優れた歌人として、世間では歌聖と称えられている。素晴らしい構想を生みだし、古今に比べる者がない。新田部や高市の諸皇子と交遊、天皇に従って吉野、富嶽、筑紫の諸国を遊歴したことがある。遊歴した場所では、柿本人麻呂は、必ず歌を詠んでいた。その歌は、今日まで伝わったものが多い。晩年の柿本人麻呂は、石見に居を構え、そこで亡くなった。

持統天皇が吉野を行幸したときに、柿本人麻呂が詠んだ長歌と短歌

やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内かふちと 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水そそく 滝の宮処は 見れど飽かぬかも

反歌

見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む

(『前賢故実』)