木村長門守

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きむらながとのかみ


画題

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解説

画題辞典

木村長門守、諱は重成、常陸介重玆が子なり。重玆罪を獲て自死せる時、重成襁褓にあり、近江馬淵邑に匿れて免る、幼より大阪に赴き豊臣右府秀頼に祿仕す、大阪冬の役、重成奮戦屡々敵を悩ます、東西和成るや、重成常服茶臼山の徳川家康陣中に赴き、載書を請ふ、家康の血判その血幽にして鮮明ならず、重成強いて鮮血を請うて帰る。挙止法に合い進退度あり、家康嘆賞し衆皆感服す。次いで和再び敗れて夏の役起るや、重成必死を期し、一夜浴を取り髪を洗い、香を焚きて兜に納め、江口曲を謡い小鼓を撃って情を遣り、翌日手兵を提げ井伊直孝の軍に突進し、奮戦数次、手兵皆潰えて後遂に戦死す、年実に二十一歳なり。大阪役の前、重成の城中に在るや、年若く容姿端麗婦人の如し、一茶坊主あり之を罵辱す、重成平然自若辱しめらるゝに任ず。而して曰く。我に倘し遠謀なくんば渠を遁かさじものをと、大阪の役起り、重成の勇奮を見て人皆始めて前の重成が忍耐に感ず。重成が勘忍として名高き逸話なり、

今伊達侯爵所蔵の重成像は伊逹政宗自ら画きたる所と伝ふ。

(『画題辞典』斎藤隆三)