小野春風

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おのの はるかぜ


画題

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解説

前賢故実

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父は石雄。代々武将を務めていた家の生まれで、勇ましくて人より一段優れていた。元慶二年、陸奥の蝦夷が叛乱を起こし、秋田城を焼いた。当時、春風は免官されて家いたが、藤原保則が摂政の基経に「夷賊を平定するには、春風が不可欠だ」と推挙したため、鎮守将軍に任ぜられた。そして、陸奥権介の坂上好蔭とともに、春風は兵を率いて東征へ出発した。保則が秋田の添川へ進軍し、反乱軍に立向かい、まもなくして勝利を上げた。そのとき、秋田の軍営に到着した春風は、夷賊の内情を知っているので、兵器を持たず敵軍の中へ入り、朝廷の威厳と恩恵を賊に宣告した。これを聞いた賊たちは、感服して次々に投降しにきた。同年冬、渡島から百余人の夷賊の首領が、部落の人たちを連れてきて降服した。津軽、渡島の各夷賊は、すべて陸奥に属することになった。仁和中、春風は從五位上を叙せられ、大膳大夫、攝津権守にまで務めていた。

左近将監とけて侍ける時に、女とふらひにおこせたりける返事に、よみてつかはしける

あまびこの おとづれじとぞ いまは思 われか人かと 身をたどるよに

(『前賢故実』)