大江朝綱

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おおえの あさつな


画題

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解説

前賢故実

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音人の孫。玉淵の子。博識で、文辞が華麗に富み、はやくから文章生になり、対策にも及第した。村上天皇の勅命を受けて、新国史四十四巻を編纂したことがある。帰国する渤海使の裴璆に贈った詩の序に「前途程遠、馳思於雁山之暮雲。後会期遥、霑纓於鴻臚之暁涙。(前途の道程が遠くて、鴈山の暮雲に思ひを馳せる。後会の期日が遠い将来になり、鴻臚の暁に別れの涙が纓をぬらす。)」とあったので、裴璆が大いに感心した。のち渤海の人は、「朝綱がすでに三公の官位になったでしょうか」と我が国の人に尋ね、「まだだ」と聞かされると、「なぜ貴邦が才能のある人を重用しないのか」と歎いた。このように朝綱の名は異域に知れ渡った。朝綱は書にも秀でて、その技量が小野道風と並ぶのではと人々に思われた。これを聞いた村上天皇は、「朝綱の書法が道風に及ばず、道風の文辞が朝綱に敵わない。」と評した。右中大辨、参議を歴任、天徳元年卒、享年七十二歳。世間では、音人は江相公、朝綱は後江相公と呼ばれていた。

余近賀菅秀才登科、不勝助喜、敢綴老爛酬和之詞、韻高調奇、情感難抑、重以吟贈。(近頃の菅秀才が試験に及第したことを祝い、わたしは大いに喜び、敢えて古くさい唱和の詞を綴り、韻が高くて調べが奇抜になり、それでも感情を抑えられず、重ねて吟じて贈る。)

東西雖異本同門(文章院の東西両曹を司る菅原家と大江家はもともと同門であり) 累代通家道尚存(代々のお付き合いにより築かれた友情が続けられてきた) 八斗才多称器量(才識が高いから器量がよいと称される) 九升情動悩夢魂(感情が高揚しやすいから夢の中でも魂が悩まされる) 窓蛍役了辞応退(窓の蛍が役目を終え辞して身を引く) 梁燕惟新賀自喧(梁の燕が新世代の出現を賀して一人でざわめく) 我已晩齢君始壮(すでに老齢のわたしに比べて、君はこれから壮年になるが) 忘年共契報朝恩(歳を忘れて、ともに朝廷の御恩に応えることを誓おう)

※大江音人が菅原清公に師事して学んでいた

(『前賢故実』)