大春日真野麻呂

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おおかすがの まのまろ


画題

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解説

前賢故実

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暦の博士。貞観三年、真野麻呂が暦について「史籍によると、豊御食炊屋姫天皇の時代に、百済僧の観勒が暦術を献上したのをはじめ、高天原広野姫天皇四年に勅命によって元嘉暦を使用することになったという。その後儀鳳暦を使ったが、天平宝字二年に儀鳳暦を止め開元太衍暦へ改めた。宝亀十一年、遣唐使録事の羽栗臣翼(故人)が宝応五紀暦経を献上し、唐国では現在太衍暦でなく宝応五紀暦経だけを使っていると言った。天応元年、宝応五紀暦経に倣って暦を作成せよ、という勅命があったが、この経を学習した人がいなくて、太衍暦の使用が継続された。」と上奏した。真野麻呂は斉衡三年に唐の五紀暦の使用を朝廷に申請した。朝廷は協議して「我が国は長い間に太衍暦を使ってきたため、暦に対する理解はもともとの意味から離れているところがある。議論ということは相手の存在が大事だから、しばらく両暦を併用し、偏ってはいけない。」と返事した。貞観元年、渤海国の大使馬孝慎が長慶暦(宣明暦経)を献上し、今の唐国では長慶暦を使っていると言った。真野麻呂は、長慶暦を審査し、その記述に間違いがなかったが、天文や時候を調べながら長慶暦を太衍暦、五紀暦と比較してみた。その結果として、太衍暦と五紀暦は、緻密でないところが見られ、実際の気候、朔日、季節などに比べて差があった。さらに唐国の開成四年および大中十二年の暦をも精査して、この二つの暦はともに長慶暦と同じだとわかった。それで、真野麻呂は暦について「陰陽の運びは、動きによって差が生じ、次第に大きくなり、ついに暦を正確でないものにしてしまう。これが原因で、唐国は開元以降暦術を三回改めた。本朝は天平以降、ずっと一つの暦を使い続けてきたので、事理に合っていない。古い暦の使用を停止し、敬って天に従うべきだ。」と論じた。すると、朝廷は真野麻呂の申請を認めた。

(『前賢故実』)