吉備大臣

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きびだいじん


画題

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解説

画題辞典

吉備大臣は吉備真備がことなり。霊亀二年歳二十四にして遣唐留学生となり、天平七年帰る。在唐の間経史を研究し衆芸に該渉す。当時学生にして名を唐土に播くもの真備と阿部仲麿の二人のみ。その間種々の難問に接し苦心惨澹の逸話は多く人口に伝わる所なり。帰朝の際丈衍暦経以下携え帰る所を朝廷に献ず。天平勝宝四年副使となりて再び唐に入り、六年帰朝し太宰大弐となる。後累進して右大臣を拝し正二位に叙せられ宝亀六年薨ず。

吉備大臣入唐絵詞は土佐光長の筆にして酒井伯爵家所蔵なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

吉備大臣とは吉備真備のこと、真備また真吉備に作る、国勝の子で霊亀二年二十四歳にして遣唐留学生となり、天平七年帰る、在唐の間経史を研修し博く衆芸に渉る、帰朝の時、唐礼、大衍暦経、大衍暦立成、測影鉄尺、銅律管等を携へ来り、これを朝廷に献じた、尋で正六位下に叙し大学助に任じ累進して従五位上に陞る、孝謙天皇東宮にある時、其学士となり恩寵甚だ渥く、後、右京大夫に遷り天平勝宝のはじめ、従四位上に進み幾何もなく左遷されて筑前守となり更に肥前守に転じた、四年遣唐副使となり、六年帰朝して太宰大弐となる、即ち建議して筑前国に怡土城を築き、後、西海道節度使となる、恵美押勝の叛するや軍事を劃策して功あり従三位に叙し参議を拝し中衛大将を兼ね、天平神護元年正三位に陞り翌年中納言に、更に累進大納言右大臣となる、四年称徳天皇崩じ、真備等文室浄之を立てやうと図つたが、左大臣藤原永尹、右大弁同百川等急に策を定めて光仁天皇を擁立したので上表して職を辞し霊亀六年薨ず、年八十二。  (大日本史)

その在唐の頃、野馬台の詩を読ませられ、当惑して住吉明神、長谷観音を念ずると、忽ち一匹の蜘蛛現はれて、その句読点を教へたとか、霊鬼と碁を囲んだとか、阿倍仲麿の霊が現はれて真備を守護したとか、いろ/\の伝説が其生涯を彩つてゐる。そして此の物語を画いたのが、酒井伯爵家蔵『吉備公入唐草子』で、画は土佐光長、詞書は卜部兼好と言はれてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)