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総合

東海道五十三対 金谷


【翻刻】

 大井川無事に越して島田髷ふみのかなやに告るふる郷 梅屋

 絵師:貞芳

【題材】

 東海道五十三対の金谷宿と島田宿の間に流れる大井川を中心に描いた作品である。駿河(金谷)と遠州(島田)の 国境に流れる大井川は、馬士唄に「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われたように、東海 道一の急流の大河である。その大井川を島田髷の女性が人足によって渡るという場面が描かれている。

【金谷宿】 

 東海道五十三対の江戸から二十四番目の宿である。現在の静岡県島田市に位置する。大井川が東海道一の急流 の大河であったため、金谷から島田に行く人々が大井川が渡れないときなどに宿泊したとされ、大変にぎわっ た宿である。

【大井川】

大井川は、かつて東海道五十三対のなかでも、箱根・今切の関所とならんで、三難所のひとつに数えられた所である。「急流のため、橋脚立ち難し」という理由で架橋も渡船も許されなかったのがこの大井川で、ひとたび大雨が降れば、たちまち川留になり、雨が続けば近隣の宿には人馬がとどこおる。

大井川に架橋や渡船が許されなかったのは、単にその流れが早すぎたためばかりではない、。慶長五年の関が原の戦いに勝利をおさめ、天下の覇者となった徳川家康は、東海道に伝馬制を敷いたのを発端として、五街道をはじめとする諸街道を、全国に開設していったが、長かった合戦の体験から、街道と交差する河川を天然の要害とみなし、これに架橋及び渡船施設を備えることを禁じた。これにより”徒渡”の不可能な大井川には、”川越人足”による渡航が始まった。

「大堰川、駿河と遠江の境なり。又あの世、此の世のさかひをも見るほどの大河なり。南風には水まさり、西風には水おつる。大雨ふれば淵瀬かはる事、度々にて定まらず。(中略)古より舟も橋も渡すことかなわず。往来の旅客、人も馬も河の瀬を知らず下れば金谷に泊り、上れば島田に止まって、水の落るを相ひ待つなり。水たかければ濁りてみなぎり、底には大石ながれこけて、渡りかゝる人は足をうたれ水におぼれて死する者多し。水の深き時は、其賃かぎりなし」と万治元年に刊行された『東海道名所記』にもあるように、大井川川越は、はじめに幕府が意図した通り、東海道通行の旅客を苦しめる、格好の関所の役割を果たした。

(1)大井川で働く人々 元禄九年、幕府は東海道の通行量増加みともなう処置として、大井川にもうけられていた制度を一新して川越一切の事務を“川庄屋”にとらせ、その事務をとるべき役所を“川会所”とした。 構成員は代官の任命により、

  取締    二人

  川庄屋   二~六人

  年行事頭取 二人

  年行事   十一人

  小頭    六~十人

  口頭    四十~五十人

  侍川越   役十人 川越人足の数は、川越・水入・弁当持ちなどを合わせると約三百六十人、両宿合わせて七~八百人いた。


(2)大井川の渡航賃金 島田・金谷宿に設置された川会所では、士分の待遇を与えられた川庄屋が、関所と同じように旅客の“人物改め”をし、生国人名を確認して川越賃をとる。この川越賃には、刎銭制度が適用されて、川庄屋をはじめとする役人の俸給や、川会所の運営費用にあてられている。川庄屋は、賃料と引き換えに川越の札を渡す。この札には2種類あり、“油札”と“台札”である。

川越の特徴は、その日の水の深さによって賃料が左右することにある。

  脇通  九十四文

  脇下通 八十八文

  乳通  七十八文

  乳下通 七十六文

  帯上通 六十八文

  帯通  五十八文

  帯下通 五十二文

  股通  四十八文


(3)渡河方法

油札を求めた旅人は川越人足一人によって、肩車・手引・馬越などの方法をとり、台札を買った旅人は、三種類ある蓮台のひとつに乗り、多数のひとつに乗り、多数の人足たちによって対岸へと運ばれた。三種類の蓮台とは、朱塗手すり付きの大名用蓮台をはじめとし、以下八人かつぎ用と六人かつぎ用がある。

(4)その他

川越人足は四季を問わず、朝6時から夕方6時までを労働時間と定められていた。しかし川越人足の仕事は、季節によって左右され、春から秋にかけては水量も多く旅客も多くて安心したが、冬の水枯れ期には、水も少なく客足も遠のき、生活の維持に苦しんだ。そこで翌年の出水期の稼ぎをあてにして、借金をする人足も多くなり、同時に幕府の決めた賃料を破り、法外な駄賃を請求する者などが続出した。

【島田髷】

大井川に臨む、東海道、島田宿の遊女が結びはじめた髷で、現代なお花嫁の文金高島田はつねに見るところ。島田髷は、結われる年輩、職業、身分、地方差、その他によって形状もいろいろに変わっている。主に未婚女性が好んで結んでいた。島田髷の種類としては、しめつけ島田・投島田・手巻島田・高島田・つぶし島田・結綿などがある。

島田髷の起源に関しての数説

<東海道島田宿の遊女が結い始めたので「島田髷」と唱えたという説>

浅井了意「東海道名所記」(万治元年成立)島田の条に、

  島田よりここまでかかれども、ついに歌ぶくろの緒がとけぬと云、馬かた聞て島田の事なれば、髪をゆふた  る事を、よみたまへかしといふ、これに心つきて、はたごやの女はちりのつくもがみ、せめて島田に、ゆふ  よしもがな、とよみたり、げにげに春元の発句に、名にゆふや、げにも島田の柳髪

とある。島田の宿が島田髷とすぐ連想されるほどに、万治年間ごろにいうは島田髷が普及していたことはわかる。

【考察】 この「金谷」という作品は、大井川を蓮台で運ばれる島田髷を結った女性が描かれている。駿河(金谷)から遠州(島田)へ里帰りするちう場面である。時代は大井川で川越人足で渡っていた頃と島田髷が流行っていたころを重ねて考えると、万治時代だと推測される。また作品に描かれている女性が駕籠に女性が乗っていることから、八人かつぎ用で、一般庶民には、とうてい及びいる手段だったので、お金持ちの女性だったのではないかと考える。また水量から賃料を考えると、川越人足の脇下通まで水がきていることから八十八文であったと考えられる。

【参考文献】

「街道物語 14 東海道 箱根~桑名」、三昧堂、1979年

秋里籬島、「新訂 東海道名所図会[中]」、ぺりかん社、2001年

粕谷宏紀、「東海道名所図会を読む」、東京堂出版、1997年

金沢康隆、「江戸結髪史」、青蛙房、1998年

富士昭雄、「東海道名所記/東海道分間絵図」、国書刊行会、2002年