初代 坂東しうか

文化10年(1813)11月生〜安政2年(1855)年3月6日没。
享年43歳。
襲名:  
    坂東玉之助 未詳   〜
<1>坂東玉三郎 文政7年(1824) 9月〜
<1>坂東しうか 天保10年(1839)11月〜
<5>坂東三津五郎 (没後代数に数える)
市村座の帳元橘屋治助の次男に生まれ、3代目坂東三津五郎の養子となる。文政7年(1824)12歳の時初舞台。文政12年(1829)<4>坂東彦三郎と名古屋へ赴き、翌13年(1830)<3>尾上菊五郎と共に大坂へ上ったと言われている。天保3年(1832)江戸へ帰り、天保10年(1839)養父三津五郎の俳名に因み、しうかと改名。弘化〜嘉永期にかけて<8>市川団十郎の相方として人気を博した。安政2年(1855)、口の辺りのできものを切って、それが悪化、43歳の若さで没した。

 <4>坂東彦三郎や<3>尾上菊五郎の二人の先輩役者に上方で同行して修行したらしいが、その芸の特徴としては、男役を女役に置き換えた芝居を得意とし、養父<3>坂東三津五郎の「仕入曽我雁金染」(文政3年中村座)の五人男を女性に改作して出した田舎娘お文などの6役(文政8年(1837)森田座の「初袷雁五紋」)は出世芸となった。他にも弘化元年(1844)市村座の女暫と女鳴神や、弘化4年市村座の女清玄などがある。
 芸風は派手で姉御肌の女役を得意とした。<5>岩井半四郎の芸風を模倣して好評を得り、その当り役の女清玄を演じた際、<5>半四郎本人から激賞されたという。嘉永期は<8>市川団十郎とともに絶大な人気を誇ったが、相継いで早死し世を悲しませた。
 私生活では豪快で金銭に淡泊な人間であった。贔屓の客から土蔵を建てる費用にと金を贈られたが、蔵を建てても入れる物は何も無いし、衣装などは質屋の蔵へ預けておいたほうが火事になったときでも安心だからと言ってその金で白米を買い、貧しい者に分け与えたという。それ故借金が多かったが、本人は気にせず、金をもらうと周りの者に分け与えたので、しうかの当たり役の雁金のお文に因んで「借金のお分さん」と呼ばれていた。金の他にも着物や食事を与えたりもしたが、これはしうかの気前の良さの現れでもあるが、自らの宣伝の為の手段でもあったようだ。