曽我狂言(そがきょうげん)

 「曽我物語」や「東鑑」にある曽我兄弟が苦難の末、親の敵工藤祐経の仇討ちを成就するまでの物語を扱った歌舞伎作品群のこと。曽我十郎・五郎の父である河津三郎が、工藤祐経の従者に暗殺されるが、母親からそのことを聞かされ、幼少期から敵討の意志をかためる。工藤に対面を果すことになるが、工藤は富士の巻狩の総奉行の役目が終わったら討たれようと約し、通行切手を渡す。五月十八日、富士の巻狩の夜、館に襲撃に入り、十八年に及んだ辛苦の末、めでたく本懐を遂げることとなる。

《初春曽我の吉例化》曽我狂言が江戸歌舞伎で初めて演じられたのは、明暦元年正月山村座での「曽我十番斬」であると言われており、舞台へ甲冑武士十四、五人居並んで立ち回り、当時の見物人を驚かせたという。以降、元禄期には、五郎を荒事の初代市川団十郎、十郎を和事の初代中村七三郎、朝比奈を初代中村伝九郎と、時代を代表する名優が得意な芝居としてしばしば上演し、初代中村七三郎や二代目市川団十郎が続けた初春から曽我狂言をロングラン興行で上演するという新しい工夫が定着し、観客も、毎年の門松やお飾りを見るような親しみを感じるなかで、成立した歌舞伎界の慣習である。
 現代の時代劇のように、登場人物や大きな筋書は同じで、なかの趣向のみを替え毎年くり返して上演された。場面としては、「石段の場」「大磯廓通いの場」「鬼王の貧家の場」「曽我の対面の場」などがある。正月から始った興行が客の入りがあり、五月まで続くと、史実にちなんで、「曽我夜討ちの場」が出された。

助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)

 正徳3年(1713)江戸山村座の「花館愛護桜(はなやかたあいござくら)」で二代目市川団十郎が演じたのが最初。その後、享保元年(1716)中村座の「式例和曽我(しきれいやわらぎそが)」で「助六実は曽我五郎」となり、曽我物に組み込まれた。現在の「助六」の基礎を固めたのは、寛延2年(1749)中村座の「助六郭家桜(すけろくくるわのえどざくら)」で、一世一代と銘打って海老蔵に改名した二代目団十郎が演じた。その後、五代目団十郎や市川家の弟子たちが洗練し、七代目市川団十郎が歌舞伎十八番の一として、大成した。

《あらすじ》曽我五郎は花川戸助六と名乗って吉原へ通い、源氏の宝刀友切丸を探すために遊客に喧嘩を売っては刀を確かめている。三浦屋の太夫揚巻は助六の馴染みの遊女。助六を心配した母満江は、武士姿になって揚巻を訪ね、助六に喧嘩をやめるように頼む。そこへ揚巻に言い寄っている髭の意休という武士がやって来て助六を罵るので、揚巻は意休に悪態をつく。白酒売新兵衛と名乗っている助六の兄曽我十郎も、助六に意見しにやって来るが、喧嘩の真意を知り、協力を申し出る。新兵衛も助六を見習って遊客に喧嘩を売るが、それは揚巻のところにやってきた母満江であった。母は助六に紙衣を着せて、喧嘩を止めさせようとする。喧嘩を封じられた助六は意休に滅多打ちにされ、しまいには紙衣を破られる。意休が抜いた刀こそ友切丸であった。助六は意休を斬って刀を奪い、揚巻の助力で廓から逃れる。

《みどころ》出演者それぞれが見せ場を持ち、理屈抜きで楽しめる芝居である。揚巻の悪態、助六の出端(花道での舞踊)、助六の名乗り、喧嘩の指南と時々の流行を台詞や演技に取り入れた滑稽な通人など、次々と見せ場が展開されていく。