四代目 中村芝翫

天保元年(1830)〜明治32年(1899)1月16日。
享年70歳。
襲名:  
<1>中村玉太郎 未詳 〜
<1>中村政之助 未詳   〜
<1>中村駒三郎 未詳   〜
<1>中村福助 天保10年(1839)3月〜
<4>中村芝翫 万延 1年(1860)7月〜
中村富四郎の次男(『明治演劇史』では長男)。
天保9年に<4>中村歌右衛門の養子となり、翌10年福助と改める。持病のため嘉永4年に離縁されるが、養父没後の万延元年には4代目中村芝翫を襲名。5代目坂東彦三郎と人気を競いながら文久3年には座頭となり、幕末・明治期の代表的役者として活躍するが、次第に明治の流れに取り残され、若い役者からは時代遅れの芸とも評された。

 背は低かったが、浮世絵師の歌川国周に「自分の絵よりも本物の方が綺麗なので描きがいがない」と言わせたほどで、愛敬に富み、養父から引き継いだ贔屓と女性・子供から熱狂的な支持を得る。安政期(1854〜60)から幕末まで、中村座と守田座を掛け持ちして出演し、4代目市川小団次と河竹黙阿弥を擁する市村座が圧倒され続けた。贔屓の熱烈さは当時から有名で、同座する役者は芝翫の贔屓が恐ろしくて舞台上の演出でも彼を足蹴にすることはできなかったという。
芸風は、世話物よりも時代物に向いており、立役・実悪・女形を兼ねた。特に所作事は幼い頃から厳しく指導されたために大変巧みで、9代目市川団十郎が権十郎と名乗っていたころ、「二人道成寺」で一緒に出て、団十郎は帯の上まで汗びっしょりになったが、芝翫は肌襦袢さえあまり濡れなかったという。しかし、芸の実力としては、ライバルの5代目坂東彦三郎より劣っていたようで、とくに新作狂言の場合は、軽い役ばかりを演じていた。明治に入ると、時代が大きく動き、古風で保守的な芸風の芝翫は次第に忘れ去られていった。
 彼は、記憶力が悪く舞台でセリフを忘れたり、金勘定ができなかったりと非常識な言動で周囲の人々を翻弄させたが、無邪気で無欲な性格であったために皆から愛され続けたという。