八代目 片岡仁左衛門

文化7年(1810)生〜文久3年(1863)2月16日没。
享年54歳。
襲名:  
<1*>市川新之助 未詳 〜
     三枡岩五郎 未詳 〜
     嵐橘次郎 未詳 〜
<1>片岡我当 天保4年(1833)春〜
<2>片岡我童 天保8年(1837)〜
<8>片岡仁左衛門 安政4年(1857)1月〜
2代目嵐璃寛の門弟であったが、天保3年春7代目仁左衛門の養子となり、我当を襲名。大坂の大芝居に出、色立役として活躍する。天保8年養父が没し、その俳名我童を名乗る。安政元年の春、江戸へ下り、安政4年正月江戸で8代目仁左衛門の名を襲ぎ、中村座の座頭となる。此頃から、色立役以外にも武道事・老役でも成功する。文久2年10月大坂に帰るが、芸が江戸風に染まっていたため、不評を買う。文久3年1月、舞台において発病し、没した。

 上方時代には2代目中村芝翫や実川延三郎(後の2代目実川額十郎)と拮抗して立役の花形と称された。江戸では、8代目団十郎に面影が似ているため「八代目の綿入」と持てはやされもした。男ぶりはよかったが、体格が小さく、捨て台詞を多く言い過ぎる欠点があったとされる。また、短気で感情の起伏が激しいところがあった。時代物はあまり得意ではなく、上方狂言の世話物を得意とした。「廓文章」の藤屋伊左衛門、「恋飛脚」の亀屋忠兵衛などで当りをとっている。
 彼は、3代目嵐璃寛や4代目市川小団次と同様に、中村歌六の娘の一人を嫁にしていたが、小団次がその嫁と離婚したことで、生涯不和になったとされる。
 安政5年8月には死亡の噂が流れ、生存中に死絵が売り出されるという珍事も起きた。
長男の3代目片岡我童は将来を嘱望されていたものの早世したが(没後9代目を追贈)、二男、三男がそれぞれ10代目、11代目の仁左衛門を襲名して、明治期の名優として名を残している。