八代目 市川団十郎

文政6年(1823)10月生〜安政元年(1854)8月6日没。
享年31歳。
襲名:  
<2>市川新之助 文政8年(1825)〜
<6>市川海老蔵 文政9年(1826)〜
<8>市川団十郎 天保3年(1832)3月〜
<7>市川団十郎の長男。文政10年(1827)11月、5歳の時江戸で初舞台。天保3年10歳にして8代目を襲名し、外郎売役で大好評を得る。天保13年(1842)6月天保の改革で父が江戸追放にあい、市川の家を守る。嘉永3年(1850)、父の追放処分が赦免となり、同5年(1852)9月、江戸河原崎座の「勧進帳」で父と共演する(28歳)。安政元年(1854)に上方へ向かい、7月、名古屋に出勤後、父とともに大坂に行くが、8月5日夜謎の自殺を遂げる。

 美貌と愛敬によって人気を博し、江戸中の女性ファンは異常なほど熱狂した。優れて美男子というわけではなかったが、「いき」で上品だった。あふれるほどの色気があるが嫌味ではなく、澄ましていても愛嬌があることから、女性はもちろん、男性にも好かれたという。天保の改革で、父の7代目団十郎(当時5代目市川海老蔵)が質素倹約の令に触れて江戸十里四方追放となった際、父のために成田不動の出張所に日参したといい、親孝行で幕府から褒美をもらっている。
 芸は、家伝来の荒事から和事まで、時代物・世話物を通じて得意とした。当たり役には、切られ与三・田舎源氏の光氏・児雷也・助六など、すっきりとした色気のある役が多い。荒事の和藤内でも当てており、父に似てまんべんなく技芸を吸収していたが、大成することなく終わった。突然の死を惜しむ死絵は300種にものぼったといわれ、追善本も多数刊行された。浅草の見世物小屋で、生人形での追善興行もあり、多くの人を集めたとされる。
 自殺の理由については様々な説があるが、その一つとしてあげられるのは、父とその愛妾お為が彼を無理に名古屋の劇場に出演させ、さらに大坂の舞台にも上らせようとしたため、小心者の彼は既に11月までの出演契約を結んでいた市村座に迷惑をかけることを苦にして自殺したという説である。当時、「お為ごかし」とは、まさにこのことと噂された。