七代目 市川団十郎

寛政3年(1791)生〜安政6年(1859)3月23日没。
享年69歳。
襲名:  
      市川小玉 未詳 〜
<1>市川新之助 寛政 6年(1794) 8月〜
<5>市川ゑび蔵 寛政10年(1798) 9月〜
<7>市川団十郎 寛政12年(1800)11月〜
<5>市川海老蔵 天保 3年(1794) 3月〜
※他に、成田屋七左衛門、<2>市川白猿、<1>幡谷重蔵などとも名乗った。
<5>市川団十郎の娘すみと和倉同心長谷川某氏との間に生まれる。寛政6年(1794)4歳で新田徳寿丸役を勤める。少年期に「暫」を勤め、人々を驚かした。文化・文政期に頭角を現し、江戸の中心的役者となる。天保3年(1832)には古記録を調べ、「暫」・「勧進帳」・「助六」などから成るお家芸十八番を制定した。その後の天保13年(1842)6月、質素倹約の令に触れて江戸十里四方追放に処せられるが、後、嘉永3年に許されて江戸に戻る。以降、江戸と上方を行き来するが、江戸では活躍の場がなく、むしろ上方での出演の方が多くなり、安政6年病没。

 比較的小柄であったが、目が大きく音調と弁舌に優れた。どちらかと言えば出目であったために目が大きく見えたのかも知れない。時代物・世話物いずれにも適し市川家代々が得意とする、荒事・武道事を本領とした。当たり役には、曽我五郎・工藤祐経などがある。
 文筆と諧謔の才にも優れ、骨董を好み、その鑑定にも長じていたという。楽天的で快活であるが、激しやすい気質でかつ神経質であった。また、往々にして傲慢で専横であったという。文化13年(1816)には<5>松本幸四郎、文政2年(1819)には<3>尾上菊五郎と、個性の強い役者と不和になっている(いずれも後に和解)。特に菊五郎はライバルとも言うべき存在であった。
 また、彼は私生活において贅沢を極め、自宅の庭には御影石の灯籠を置くなどして、王侯の富を凌ぐ程であったという。そのため、天保の改革における役者の生け贄として、江戸十里四方追放の憂き目にあっている。3人の妻と3人の妾を持ち、その間に7男5女をもうけ、自ら「壽海老人」、「子福長者」と称した。