仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)

 日本演劇における最も代表的な戯曲である。赤穂義士の敵討を題材とし、寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演。二世竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作による全十一段の時代物浄瑠璃。初演時には一座にモメ事が起き長く興行が続けられなかったが、その後まもなく歌舞伎に移され、現在まで最大の上演回数を誇る。観客の不入りの時に上演され、必ず大入となったため「独参湯」と称された。

《あらすじ》「松の間」にて、高師直に辱められた塩冶判官は師直に斬りつけるが、加古川本蔵に抱き止められ、本懐を遂げることができなかった。逢引をしていてその場に居合わせなかった塩冶の家来早野勘平は、恋仲の腰元おかるにすすめられ、おかるの実家山崎の里へ落ちていく。判官は切腹を命じられ、お家断絶。家老大星由良之助は、深い分別を以って城を明け渡し、山科へ去る。おかるは勘平のため祇園に金百両で身を売る。その半金五十両を持ったおかるの父与一兵衛は帰路の途中、塩冶の浪人斧定九郎の追い剥ぎに遭い、金と命を奪われる。しかし猪撃ちに出た勘平の弾によって定九郎は死に、奪った五十両は勘平の手に渡る。家に帰った勘平は、自分が殺した相手が舅与一兵衛であったと思い込み、腹を切るが、訪れた千崎弥五郎、原郷右衛門の両者によって勘平の冤罪は晴れ、一味連判に加わることを許される。祇園一力茶屋で、敵の目をくらますため遊興にふける由良之助。恋文を読むふりをして密書を読み始めるが、遊女となったおかると敵方に寝返った九太夫にのぞかれていることに気付く。由良之助は、大事を知ったおかるを殺そうとするが、その本心を知り、その手で九太夫を殺させ、勘平のかわりに功を立てさせた。

《切腹》江戸時代の武士の刑罰の一種。死罪の中でもとりわけ名誉ある死に方だった。歌舞伎や人形浄瑠璃には切腹の場面が多く見られ、そのほとんどが全体の中心をなす重要な場面となっている。「忠臣蔵」では、四段目が「判官切腹」、六段目が「勘平腹切」と、それぞれ場面の通称にもなっている。切腹と「腹切り」の違いは、死を選ぶ状況と手順の違い、階級の違いなどによる。

《手負事》勘平の切腹の演出は「手負事(ておいごと)」と呼ばれるもので、舞台上で重傷を負った人物が、苦痛をこらえて演技をすることをいう。芸の系統としては辛抱役に属するものであり、かなりな高度の芸を要する。