浮世絵基礎知識 3
-  絵師について -


菱川師宣 作画期 寛文(1661〜1673)〜元禄7(1694)

「見返り美人図」などの肉筆画で有名だが、絵本の挿絵も多数描いている。文字に従属的だった挿絵を発展させて、独立した絵画作品としての芸術性を高め、浮世絵版画の祖と称されている。 

鳥居清信 作画期 元禄10(1697)〜享保12(1727)

役者兼絵師であった父清元に学び、劇場に正面に飾る看板絵を描いたといわれる。荒事中心の江戸歌舞伎に適した「瓢箪足蚯蚓描」という画法を考案し、鳥居派の様式を確立した。これは、役者の体をくびれた瓢箪のような手足の形態と、蚯蚓の這っているように見える曲線で描き出すという手法である。浮世絵と歌舞伎との密接な関係を築き、役者の舞台姿を描いた役者絵を制作した。また、役者絵の他に美人画も手がけている。

鈴木春信 作画期 宝暦10(1760)頃〜明和7(1770)

師宣の活躍した頃は、墨一色の墨摺絵であった浮世絵版画は、寛保(1741〜1744)頃になると色摺版画が一般形式となる。これは紅摺絵と呼ばれ、三色使いのものが多いが、複雑なものでは五色使いのものもある。この多色摺の技術は明和2年(1765)頃から飛躍的に進歩し、数色、時には数十色もの色を使った錦絵が生まれた。この錦絵の誕生に貢献したのが鈴木春信である。当時盛んであった美人画が代表作である。

勝川春章 作画期 明和(1764〜1772)〜寛政4(1792)

錦絵の誕生した明和期に役者絵を描いたのが勝川春章である。元禄初期(1697)から続く、役者名がなければ誰を描いているか判別ができない鳥居派の役者絵とは異なり、役者似顔絵を用いて描いた。これ以後、役者絵は必ず似顔で描かれることになる。

喜多川歌麿 作画期 安永4(1775)〜文化3(1808)

歌麿は主に寛政期(1775〜1880)に女性の姿態美や衣装美を重要視する従来の美人画とは異なる、女性の心理状態を顔の表情で表す新たな美人画を描き、代表的絵師としても名高い。

東洲斎写楽 作画期 寛政6(1794)5月〜寛政7(1795)1月

作画期間が8ヶ月と短く、その正体も不明で、謎の絵師といわれて人気が高い。役者絵、相撲絵などを描き、144点の作品を残している。

葛飾北斎 作画期 安永8(1779)〜嘉永2(1849)

北斎は「冨嶽三十六景」で風景画家として有名だが、役者絵の勝川春章のもとに弟子入りしたのが浮世絵師としての活動の最初であった。「春朗」の画名を用いて役者絵、角力絵、美人画を描いている。その後、狩野派、土佐派、洋風画等、様々な画流を学び、独自の画法を確立した。 

初代 歌川豊国 作画期 天明8(1788)頃〜文政7(1824)

豊国は寛政6年(1794)、役者似顔絵の全身図シリーズ「役者舞台之姿絵」を刊行し好評を得て、役者絵画家の第一人者となった。最初は師匠である歌川豊春風の作品を描いたが、やがて喜多川歌麿など、寛政期の名匠の特徴を取り入れた作風へと変化した。その後も時流を敏感に読みとり、画風を様々に変化させていった。多くの門人を擁して幕末の最大画派である歌川派を率いた。


初代 歌川国貞 
作画期 文化4(1804)〜元治1(1864)[没年]

初代歌川豊国の門人。文化4年(1807)に合巻の挿絵で出発し、文化6年(1809)頃から錦絵を制作し始める。文化8年(1811)頃から、美人画、役者絵を描き、国芳・広重と並んで幕末浮世絵界を代表する絵師となる。役者絵は舞台の熱演を生き生きと描いたことで好評を得、美人画は「粋」という美意識をよく描いている。弘化元年に師の歌川豊国の名を継ぎ。2代目を自称するが実際は3代目。主な門人に、2代目歌川国貞、歌川国周らがいる。

歌川国芳 作画期 文化9年(1812)〜万延1年(1860)

文化(1804〜18)末年から役者絵、合巻押し絵等描いた。文化初年から錦絵が一部人気がでるが、その後続かない。文政末年に水滸伝豪傑錦絵を描きここで人気沸騰。天保(1830〜44年)期に武者絵、洋風風景画、美人画、魚類画、風刺画、戯画等多数制作。その後弘化・嘉永(1844〜54)期には3枚続きの武者絵を制作。新境地を開拓していく。また万延初頭かはら横浜絵を制作した。彼は西洋の近代的写実技法を消化し、数多くの作品を世に送り出していった。彼の主要な門人としては芳虎、芳幾、芳年らがいる。 

歌川広重 作画期 文政1年(1818)頃〜没年(詳細不明)

狂歌本の挿絵や、役者錦絵を描き画の道に入る。文政初期から美人画を制作して後、様々な領域に手を広げていく。天保2年頃風景画に開眼し、同4年「東海道五十三次」を発表。風景画家としての地位を築く。その後、作風に多少変化は表れるものの、晩年には再び風景画に情熱を燃やし、江戸名所の集成など描く。彼の作風は、各々の季節の特徴を叙情豊かに捉えており、現在でも浮世絵の代表として、世間に知られている。

二代 歌川国貞 作画期 嘉永3年(1850)〜明治初期

長編合巻の挿絵でその才能を発揮し、国政から2世国貞に改める。錦絵では美人画や役者絵を数多く描くが、師匠の技量には遠く及ばなかった。代表作として、「八犬伝犬の草紙」などがある。 

歌川国周 作画期 安政(1854〜1859)〜明治33(1900) 

初めは豊原周信に学び、羽子板押絵の原画を描いていた。嘉永元年(1848)頃3代目豊国に入門する。国貞の作品「三十六花撰」の表紙に国貞の肖像を描いた。国貞の没後、歌川国芳門下の落合芳幾と役者絵の主導権を争い、役者大首絵や、後年は役者似顔絵の七分身像をなどを多数制作している。横3枚続の画面に一人立ちの半身役者絵を描くなど、奇抜な構図のものを多く制作し、明治以降は、完全に役者絵の主導権を握った。しかし、写真の流行とともに、浮世絵版画による役者の肖像画は、役割を終え、本格的に役者絵のみで生計を立てることのできた最後の役者絵師となってしまった。


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