立命館大学アート・リサーチセンター所蔵
浮世絵名品展 第二期 出品目録
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佐倉宗吾 解説へ
三代目歌川豊国(大判錦絵2枚続)                    shiUY0043,0044
「当吾女房お峯」「忰当太郎」「国松」「三之助」
「浅倉村庄屋当吾」
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嘉永4年(1851)8月7日 中村座
ひがしやまさくらそうし
東山桜荘子 四幕目 妻子に別れ藤吾大義を計の段

当吾忰当太郎<1>市川蔦之助、国松<1>市川粂次郎
当吾女房お峯<2>尾上菊次郎、三之助(役者不明)
浅倉村庄屋当吾<4>市川小団次
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激しい雪の中を再び旅立つ当吾を、妻と子供が家の窓から見送っているが、当吾を演ずる<4>小団次の陰のある表情は、この場にいかにも相応しい。この後、窓の中に妻子を配し、舞台下手から花道へと移動していく舞台であるが、花道の当吾をアップに描き劇空間の奥行を感じさせる別作品もある(参考図)。当吾の直訴の後、妻おみねは拷問にあい、幼い三人の子供も惨殺される運命にある。

三代目歌川豊国(中判錦絵1枚)                                   shiUY0219
「豊国百首」
「桜荘子後日文談 第二番目八幕目 足利館の場」
「足利義政公 あらし雛助」「当吾 市川小団次」
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文久元年(1861)8月1日 守田座
さくらそうしごにちぶんだん
桜荘子後日文談 八幕目 東山録流閣の場

足利義政公<7>嵐雛助、当吾<4>市川小団次
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「豊国百首」シリーズは、過去の名作の一場面と、当時の様式での歌舞伎台帳の表紙と裏表紙を描くもの。本図は年月改印によると「戌二改」(文久2年2月)であり、大当りした翌年に製作・出版されたことがわかる。
本狂言は、「東山桜荘子」の初演から十年後、<4>市川小団次の要望を受けて河竹黙阿弥が補訂して上演されたもので、この芝居もまた百日余りの興行を続けた。この場面は足利義政と直訴状をくわえる当吾が描かれており、通天橋で紅葉を見る義政に当吾が直訴する場面であることがわかる。

歌川国芳(大判錦絵2枚続)                                shiUY0101,0102
「浅倉村庄屋当吾」「一男当太郎」「二男国松」
「三男三之介」「当吾女房おみね」
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嘉永4年(1851)8月7日 中村座
ひがしやまさくらそうし
東山桜荘子 四幕目 妻子に別れ藤吾大義を計の段

浅倉村庄屋当吾<4>市川小団次、
一男当太郎<>市川蔦之助、二男国松<1>市川粂次郎、
三男三之介(役者不明)、当吾女房おみね<2>尾上菊次郎
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本作は、佐倉宗吾の義民伝を歌舞伎化した最初の作品で、当時大評判であった柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』と綯い交ぜにしたものである。八月から始った興行は、十月まで続けられる程の大当たりで、宗吾(当吾)役を演じた<4>市川小団次の代表作となった。この場面は、直訴の決意をした当吾の<4>市川小団次が雪の中を故郷に戻り、妻子に別れを告げる場面。この子別れの場面は大変な評判であったという。父に取りすがる子供の姿が哀れである。

歌川周延(大判錦絵3枚続)         shiUY0251,0252,0253
「母お千代 市川寿美蔵」「一子宗太郎」
「女房お峯 河原崎国太郎」
「佐倉宗吾 市川団十郎」「二男国松」
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明治17年(1884)7月5日 市村座
とうえいざんのうふのねがいしょ
東叡山農夫願書 一番目

母お千代<5>市川寿美蔵、一子宗太郎<1>勝栗
女房お峯<3>河原崎国太郎、
佐倉宗吾<9>市川団十郎、二男国松<1>喜六
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本作は、<9>市川団十郎のために、<3>河竹新七が新たに脚色した実録風の佐倉宗吾物。先の図と同じ子別れの場面を描くが、ここでは新たに宗吾の姑お千代が加わる。この芝居で宗吾役を勤めた<9>市川団十郎は当初様々に工夫しながら稽古していたが、ある人が領主の非行を暴いて直訴するの宗吾は不義の人物だと評したために熱が冷め、以降舞台を疎かにしたので不評の内に幕を閉じた。当時の評では百姓風の宗吾ではなく元が武士という心持ちの学問も分別も有る大庄屋風で、ここで描かれている妻子との別れの場も大変あっさりしたものであったという。

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