立命館大学アート・リサーチセンター所蔵
浮世絵名品展 第二期 出品目録

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曽我狂言 助六 解説へ
初代歌川豊国(大判錦絵2枚続の内1枚)                       UY0253
「鬼王 関三十郎」
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文化10年(1813)2月1日 市村座
はずかしきおもかげそが
花挿俤曽我 一番目二建目

鬼王<2>関三十郎
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役者評判記によると、貧しい鬼王のために妻の片貝(<3>市川団之助)が身を売る覚悟を決めて石灯籠に念じている。そこへ雲切丸を売り払った代金三百両を持った閉坊(<2>関三十郎)があらわれ、言い寄られるが、鬼王(二役早変りの<3>関三十郎)が閉坊を殺し、三百両を手に入れるという筋であった。鬼王の持つ刀は、その雲切丸と思われる。また、この左図には、片貝を演ずる<3>市川団之助が描かれていたものだろうか。

初代歌川国貞(大判錦絵3枚続)    UY0100,0101,0102
「工藤祐つね 中村芝翫」
「五郎時宗 市川海老蔵」
「舞つる 岩井杜若」
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天保4年(1833)1月 (見立)

工藤祐つね<2>中村芝翫、五郎時宗<5>市川海老蔵
舞つる<1>岩井杜若
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曽我兄弟と工藤祐経との対面の場。工藤は、兄弟に討たれてやることを覚悟するが、富士の巻狩まで待てといい、その巻狩の絵図面を五郎に見せる場面。
舞鶴を演じている<1>岩井杜若は天保3年11月に改名し、<2>中村芝翫の江戸御名残の出演が天保4年9月であることから、この絵は天保4年正月頃のものと推定できる。しかし、天保4年に三人の役者は同じ座に出演していない。したがって、いわゆる見立絵と思われる。五郎の衣装には蝶、舞鶴は鶴の丸の大紋素袍、工藤祐経は庵木瓜の紋に<2>芝翫に由縁の深いイ菱紋を全面にあしらっている。

三代目歌川豊国(大判錦絵3枚続)     UY0319,0320,0321
「五郎時宗 河原崎権十郎」
「十郎祐成 坂東彦三郎」
「大磯のとら 岩井紫若」
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元治元年(1864)4月10日 中村座
さとつばめすがたのいなずま    ほまれそがさつきのねんりき
花街燕比貌稲妻 二番目 誉曽我皐月念力
                    夜討十番切の場

五郎時宗<1>河原崎権十郎、十郎祐成<5>坂東彦三郎
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当時の役者評判記によると茶屋場で大勢の悪者に恥辱を受けた十郎が闇に紛れて仕返しをするという内容。仕返しの場は道具立が悪く、立ち廻りも一通で変わりばえがしなかったので、凄みが感じられなかったという。この興行は、初日からわずか十日程で中村座が焼失し、7月から外題を変えて再び興行した。五郎時宗は蝶、十郎祐成は千鳥の模様という曽我兄弟の典型的な衣装をつける。

助六

三代目歌川豊国・〈駒絵〉歌川広重(大判錦絵1枚)       UY0324
「東都高名会席尽」「髭の意休」
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嘉永5年(1852)12月 (見立)

髭の意休<4>市川小団次
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嘉永5年10月から翌6年2月頃まで出版された「東都高名会席尽」のシリーズの1枚。「忠臣蔵」「菅原」「千本桜」「四谷怪談」などの名作歌舞伎の登場人物を当時の売れっ子役者の似顔絵で綴った。「会席尽」のタイトル通り、歌川広重が描く背景のコマ絵では、描いた役に因んだ料亭やその店に関連する事物を描く。同じシリーズの作品は現在のところ39種が確認でき、その中には<8>市川団十郎の助六図もある(参考図)。本図では、「髭の意休」という名前に似た「万久」という料亭を紹介し、音の類似を楽しめる作品になっている。コマ絵に描かれるのは、そこで出されるお弁当でもあろうか。意休の髪と髭に細い凹凸が見られるが、これは空摺りを施したもの。

初代歌川豊国(大判錦絵2枚続)                        UY0254,0255
「伊久 松本幸四郎」
「助六 市川団十郎」
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文化6年(1809) (見立)

伊久<5>松本幸四郎、助六<7>市川団十郎
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豊国の落款(サイン)の字体から、文化6年に描かれた絵だと考えられる。この年正月元日の夜日本橋佐内町より出火、中村市村両座とも類焼した。当時<5>幸四郎と<7>団十郎の在籍していた市村座は4月に復興したが、この年市村座で「助六」の上演された記録や、上演予定であったが火事の為に出来なかったという記録はない。火事で芝居小屋を失い、芝居が休みとなっていた時期に、ファンを慰めるために出版された見立絵と考えられるだろう。市川家のお家芸の一つである「助六」だが、市川家の若き当主<7>団十郎はこの時点ではまだ一度もこの役を演じておらず、実悪筆頭の<5>幸四郎を相手役とした理想の配役で描いたものだろう。この配役での「助六」上演は2年後、文化8年に実現される(参考図)。意休は今では総白髪で演じられるのが普通だが、本図で描かれるのは黒髪の意休である。黒髪の意休は宝暦6年(1756)に<2>沢村宗十郎が始めたといわれ、以降天明から文化にかけて、意休が黒髪で描かれる図は比較的多い。<5>幸四郎は、寛政11年(1799)中村座で黒髪の意休を演じたらしく、黒髪で描かれたこの時の絵が3種類残っている。本図が描かれた文化6年にも、寛政11年上演の際の印象があったため、黒髪で描かれたのではなかろうか。

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