豊国の落款(サイン)の字体から、文化6年に描かれた絵だと考えられる。この年正月元日の夜日本橋佐内町より出火、中村市村両座とも類焼した。当時<5>幸四郎と<7>団十郎の在籍していた市村座は4月に復興したが、この年市村座で「助六」の上演された記録や、上演予定であったが火事の為に出来なかったという記録はない。火事で芝居小屋を失い、芝居が休みとなっていた時期に、ファンを慰めるために出版された見立絵と考えられるだろう。市川家のお家芸の一つである「助六」だが、市川家の若き当主<7>団十郎はこの時点ではまだ一度もこの役を演じておらず、実悪筆頭の<5>幸四郎を相手役とした理想の配役で描いたものだろう。この配役での「助六」上演は2年後、文化8年に実現される(参考図)。意休は今では総白髪で演じられるのが普通だが、本図で描かれるのは黒髪の意休である。黒髪の意休は宝暦6年(1756)に<2>沢村宗十郎が始めたといわれ、以降天明から文化にかけて、意休が黒髪で描かれる図は比較的多い。<5>幸四郎は、寛政11年(1799)中村座で黒髪の意休を演じたらしく、黒髪で描かれたこの時の絵が3種類残っている。本図が描かれた文化6年にも、寛政11年上演の際の印象があったため、黒髪で描かれたのではなかろうか。
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