『烏塚百回忌』解題と翻刻

竹内 千代子

 京都府立舞鶴市郷土資料館に、故糸井仙之助氏旧蔵の文庫がある。その文庫は、丹後俳壇の様相を知り得る貴重な俳諧資料を蔵する。ここに紹介する『烏塚百回忌』(「改訂版丹後郷土資料目録」の分類番号 十、イ、13)は、そのうちの一冊である。本書は、『国書総目録』等に記載されておらず未紹介である。また、丹後俳壇とりわけ田辺(舞鶴)俳壇の様相と芭蕉顕彰事業の一つである芭蕉塚の建立とについて、重要な情報が得られるのでここに翻刻紹介する。
 本書の書誌を記す。表紙は鈍色、三羽の烏を飛ばす。外題「烏塚百回忌」(中央・原・刷・貼題箋)。半紙本一冊、縦二十二・九糎、横十五・四糎。墨付十八丁。柱刻「一〜十八」。「智恩院之絵図」一丁を挿入。刊記「蕉門書林 皇都寺町通二条 橘屋治兵衛梓」。編纂者は丹後田辺の逸見木越。京都の中川蝶夢の序文。丹後田辺における芭蕉塚の開眼と、芭蕉百回忌に寄せた「寛政五丑年十月五日於智恩院興行」とを記念した撰集。
 木越は、逸見氏。名は與一左衛門久邦。屋号は壷屋。別号は臨泉館、松月庵。法名は直光院宗恵日與。寛保元年生、文化二年八月七日没、享年六十五歳。辞世句「あきの月われもはれ行心かな」。著作は、「天明六年十月十二日於城崎洗心亭興行」を収めた『湯島翁忌』(橘屋治兵衛刊)、紀行文「身延山参詣記」(自筆)が糸井文庫に蔵する。文化四年に息如阜によって木越の追善集『まつの月』(京都書林 橘栄堂 勝田善助刊)が編纂されている。絵画をよくし、岡本豊彦に師事する。
 『烏塚百回忌』は、寛政五年十月五日に、芭蕉塚である烏塚を開眼した記念の撰集である。烏塚は、芭蕉句「何に此師走の市に行からす」をほぼ球形の石に刻んだものである。塚の名は蝶夢の命名である。そして、この烏塚は、義仲寺編纂の『諸国翁墳記』に「烏塚 丹後田辺智恩院 木越建」と記載され、全国に披露された。因みに、智恩院は、現在の慈慧山円隆寺の本坊であろうかと推測されるが、現存しない。
 寛政五年の義仲寺は、蝶夢の高弟である井上重厚が貫主であったが、京都に居た蝶夢の後援するところは大きかった。『諸国翁墳記』は、初期は宝暦十一年三月の序文を持つ二十丁ほどの小冊子から、代々の義仲寺貫主に引継がれて、安政五年の建立を含む六十三丁のものまでの数十種類の冊子が知られる。その翁墳は、義仲寺にある本廟に詣でることを本義とするが、諸般の事情によってそれができない俳士達が、各地に芭蕉の供養塔を建立したものの総称である。形状ならびに石面にかかれた文字などはさまざまであるが、芭蕉句を記したものが最も多い。その中で、「何に此」の句が石に刻まれた例は極めて少ない。『諸国翁墳記』中では、烏塚の後に「信州更科郡稲荷山ニ在 日々斎卜胤門人中」の「師走塚」が建てられているのみである。
 また、『烏塚百回忌』は、寛政五年十月十二日の芭蕉百回忌の追善俳諧興行である。正当忌の前に田辺の智恩院に於いて興行された。烏塚の開眼導師と俳諧興行の同座とを希求して、正当忌には義仲寺興行に出座する蝶夢を招くために、木越は十月五日の日
を選んだ。それに対して蝶夢は、義仲寺に関する諸事の多忙さと、丹後の寒さのために石蘭を使いとして、序文を記し、香を持たせた。石蘭はそれらと本廟の土を携えて丹後の地に赴いた。脇起り歌仙の第三に、

  君がため鋤とり箕とり土持て  石蘭

とあるごとくである。丹後に本廟の土がもたらされたのは、明和四年の丹後の宮津・天橋立「一声塚」に次いでのことである。
 木越の俳諧活動は、安永五年の『しぐれ会』に入集以来没年まで毎年のように継続して出句する。明和・安永頃の丹後俳壇が、宮津蕉門を中心として、「墨直し」、「しぐれ会」との繋がりで俳諧活動を展開させて行った後、安永・天明・寛政期は田辺蕉門の活動が活発になる。宮津連が京都の蝶夢について芭蕉顕彰事業の一環を担う「しぐれ会」を全国に知らしめるほどに定着させる一助となったのに対し、田辺連はやや後発で「しぐれ会」を継続発展させた。それは、宮津連の原動力であった鷺十・陵巴・竹渓・季友・東陌・百尾・馬吹らの活躍した時期が明和・安永期に集中しているからであり、田辺連の木越・桑五・梅里・旭布・柳靡らの活躍した時期が安永・天明・寛政期に集中しているからである。
 また、田辺の俳壇には、蝶夢に繋がらない連中がいた。それは、京都の千載堂丈石に師事する人々である。千載堂の歳旦帖は丈石、丈可、丈士、貞士へと引継がれ、明和期から享和期ごろまで刊行されていたものと推測されるが、現在のところ確認できる撰集は少ない。そのうち、明和・安永期に刊行されたものを見ると、田辺連の浦夕・沙長・錦枝・可随・和吹・有中・柳靡・友月・江籬・桑五・踏青・木越らの入集が確認できる。因みに、明和・安永期の千載堂の除元集の収集については、管見の限りでは糸井文庫のものが最も充実している。このうちの有中・柳靡・桑五・木越らは、蝶夢の「しぐれ会」などにも入集する連中で、宮津と田辺を結ぶ役割を担っていたものと考えられる。なお、宮津俳壇は、宮津を中心として丹後各地の俳人から構成されており、田辺俳壇も田辺を中心として丹後各地の俳人から構成されている。このような丹後俳壇の中にあって、木越は早くから宮津蕉門と交わり、田辺に烏塚を建立するするなど、俳諧の実作・指導力に優れ、経済的実力もあったと推測される。
 寛政五年十月十二日の芭蕉百回忌の追善俳諧興行は、木越、桑五、柳靡などの田辺の俳人が中心となって執行された。これらの人々は、宮津連と共に蝶夢に繋がって芭蕉を敬慕していた連中である。また、『烏塚百回忌』の「当国名録発句」に名を連ねる江籬、友月、浦夕、可随、十雨などは、千載堂に繋がる田辺連中である。木越は、この連中をも取り込んで、『烏塚百回忌』に入集する宮津連の馬吹、白児、阿誰、百尾らとは同じく蝶夢に繋がるが、宮津俳壇との一線を画しながら、田辺に蕉門の礎を築いたと言えよう。さらに、『烏塚百回忌』には、丹後各地の連中の句ならびに、全国各地からの句が入集している。このようにして、丹後田辺から全国に向かって田辺蕉門の存在を発信したのである。

●本解題と翻刻は、2005年3月、英知大学人文科学研究室紀要「人間文化」第8巻に掲載したものである。

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