『花供養』解題

竹内 千代子

 高桑蘭更は、京都東山の双林寺内に、芭蕉堂を創立した。天明六年三月十二日に、芭蕉の桜木の像に花を奉るという花供養会を修し、撰集『花供養』を刊行した。以後、代々の芭蕉堂主の蒼虬・九起・公成に受け継がれていく。版元書肆は、菊舎太兵衛に始まり、勝田喜右衛門・勝田善助・菊屋平兵衛・近江屋利助などに移り、一時期は芭蕉堂の蔵版となる。

『花供養』は、芭蕉堂の機関紙としての性格を持ち、全国からの門人や知友の句が寄せられている。時代の要請から俳諧は大衆化していき、それを敏感に感じ取った『花供養』は、門閥などに拘らず広く全国の俳人を受け入れた。特に、寛政期は、全国の俳人を網羅し、当代の俳壇を概観するに足るものとなっている。ここに可能な限りで諸本による校異を行い、稀覯本の便を図り、翻刻紹介して研究に資するものである。

天明六年刊の『花供養』は、花供養の成立に関わって重要な資料を提供する。最初に一座した芭蕉堂社中連は、蘭更・渭川・有庸・葵・車蓋・南栄・白岱・其成(書肆菊舎太兵衛)である。京都では新参の闌更が、俳諧の有志と頼んだ人々である。また、注目される連中は、中川蝶夢門で義仲寺住職の井上重厚、京都城南樗良門に親しい西村定雅や、書肆でもあった玄化堂甫尺、大坂住の不二庵二柳・江涯らである。

まず、重厚とは既に、義仲寺の時雨会とを介しての交流があった。例年の十月十二日に義仲寺で芭蕉追善の法要と俳諧興行が催され、撰集『時雨会』が刊行されているが、『花供養』の体裁は、『時雨会』に倣うところが多い。闌更は、天明三・六・七年、寛政元・三・四・五・六・七・八・九年の時雨会に出座している。一方、重厚は天明六年、寛政五・六・七・八・九・十一年の花供養会に出座している。このように、闌更と重厚との交際は密であり、地方系蕉門の芭蕉顕彰に繋がる気風が強く感じられる。

一方、定雅・甫尺・二柳・江涯らは、与謝蕪村との華やかな交流が知られ、都市系蕉門の気風が強い人々である。闌更は、門流に深く拘らず積極的に俳諧を展開していったのである。

また、二柳は、双林寺において、芭蕉顕彰の墨直し会を修している。宝暦十一年『墨直筆ついで』、宝暦十二年『墨直この卯月』の二書を刊行している。双林寺を廻る縁であろうか、蘭更は巻末に次の句を載せる。

桜狩よき寺見出す都かな 蘭更

句中の「よき寺」は、双林寺であり、当時の住職は月峰である。月峰は、双林寺三十四世、絵画を能くして同寺内の大雅堂二代堂守(文化元年以降)となるが、俳諧も好み花供養会の常連でもあった。

 寛政期の京都俳壇の重要な勢力のひとつは、双林寺を中心に展開して行ったのである。

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