幕末の江戸歌舞伎

                  <日本市川三筋之巻物2

じらいやごうけつものがたり
児雷也豪傑譚語

天保の改革によって大きな打撃を受けた江戸の歌舞伎界も、嘉永期に入ると再び活気を取り戻していく。こうした中、読本や合巻などの小説と歌舞伎との交流が以前よりも盛んになり、小説類を原作とした歌舞伎が増加する。嘉永5年(1852)に上演された「児雷也豪傑譚語」も、当時の人気合巻『児雷也豪傑譚』(美図垣笑顔ほか作、歌川国貞ほか画)をほぼそのまま脚色して、上演した作品である。蝦蟇の妖術を駆使する義賊・児雷也役が八代目団十郎に見事にはまって大当りをとり、児雷也は八代目団十郎の当たり役の一つとなった。

70

「児雷也」

個人蔵
嘉永5年(1852)7月河原崎座
じらいやごうけつものがたり
「児雷也豪傑譚語」

児雷也<8>市川団十郎

<3>歌川豊国画

71

「盗賊夜叉五郎」「高砂勇美之助」「尾形児雷也」

個人蔵
嘉永5年(1852)7月河原崎座
じらいやごうけつものがたり
「児雷也豪傑譚語」

盗賊夜叉五郎<2>市川九蔵
高砂勇美之助<3>嵐璃寛
尾形児雷也<8>市川団十郎

<3>歌川豊国画
 

 

よはなさけうきなのよこぐし
与話情浮名横櫛

嘉永期(1848〜1854)以降の江戸歌舞伎のもう一つの大きな特徴として、実録種や舌耕芸を盛んに取入れたことがあげられる。「切られ与三郎」で知られる「与話情浮名横櫛」もその一つで、素材となったのは乾坤坊良斎、一立斎文車の講釈や、古今亭志ん生の人情噺であった。当時人気絶頂の八代目団十郎を傷だらけにするという奇抜な趣向や、「しがねぇ恋の情けが仇」の名台詞などが見どころ。この作品を書いたことにより、三代目瀬川如皐は、歌舞伎史に名を残す狂言作者となった。

72

「伊豆屋与三郎」「赤間愛妾お富」

個人蔵
嘉永6年(1853)3月中村座
はなとみますやよいのはつやく
「花☆☆☆初役」
二番目
よはなさけうきなのよこぐし
「与話情浮名の横ぐし」

伊豆屋与三郎<8>市川団十郎
赤間愛妾お富<4>尾上梅幸

<3>歌川豊国画
 

73

「横ぐしのお富」「向疵の与三」

個人蔵
嘉永6年(1853)3月中村座
はなとみますやよいのはつやく
「花☆☆☆初役」
二番目
よはなさけうきなのよこぐし
「与話情浮名の横ぐし」

横ぐしのお富<4>尾上梅幸
向疵の与三<8>市川団十郎

<3>歌川豊国画

74

「踊形容外題づくし 与話情浮名横櫛
五まく目 雪の下源氏店の場」

個人蔵
嘉永6年(1853)3月中村座
はなとみますやよいのはつやく
「花☆☆☆初役」
二番目
よはなさけうきなのよこぐし
「与話情浮名の横ぐし」

横ぐしお富<4>尾上梅幸
向疵の与三<8>市川団十郎
いづゝやばん頭藤八<1>中山市蔵

<3>歌川豊国画

 

はちまんまつりよみやのにぎわい
八幡祭小望月賑
安政期(1854〜1860)に入ると、四代目市川小団次と提携した二代目河竹新七(後の黙阿弥)が台頭し、現在でも上演頻度の高い作品を次々と書き下ろしていく。この「八幡祭小望月賑」も小団次が関わった作品の一つで、それまでの不入りを挽回し、大当りをとった。現在では縮屋新助の筋のみ上演されるが、初演の際には「切られ与三郎」の世界で上演され、亡き八代目団十郎の当たり役であった与三郎役を弟の初代河原崎権十郎(九代目団十郎)が勤めた。75は、九代目団十郎が、八代目の追善興行のため大役ながら与三郎役を勤める、という旨を記した口上図。

75

「故人与三」
「兄八代目三升追善狂言口上」

立命館大学ARC蔵
UP1601
万延元年(1860)7月市村座
はちまんまつりよみやのにぎわい
「八幡祭小望月賑」

与三<8>市川団十郎
<4>市川小団次
<1>河原崎権十郎(<9>団十郎)

<3>歌川豊国画

76

「きられ与三」
「縮うり越後新介」
「横ぐしおとみ」

立命館大学ARC蔵
UP1598
UP1599
UP1600



<3>歌川豊国画

万延元年(1860)7月市村座
はちまんまつりよみやのにぎわい
「八幡祭小望月賑」

きられ与三<1>河原崎権十郎(<9>団十郎)
縮うり越後新介<4>市川小団次
横ぐしおとみ<3>岩井粂三郎
捕手<1>嵐吉六ヵ
                   <日本市川三筋之巻物2