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忠臣蔵書籍

 

浪速秤華兄芬輪
なにわばかりうめのふんりん

曲亭馬琴作、子興画
寛政13年(1801)刊

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画面ごとに「○○の重サ」の標題と天秤の図を掲げ、さまざまな故事・ことわざなどを秤に見立てて善悪の軽重を説く。コマ絵に<怒>より<命><命>が重いことを示し、中央に忠臣蔵三段目の図を描く展示箇所「いのちの重サ」では、刃傷事件について「一時の怒りに家を忘れ、身を忘れ、重き命を失うのは浅ましいことだ」と説く。堅く教訓めいた作風が前面に出ているところに、馬琴らしさが感じられる作品である。

 

人相手紋/裡家☆見通座敷
にんそうてのすじ/うらやさんみとおしざしき

山東京伝作、北尾重政画
享和3年(1803)刊

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様々な題材を人相や手相に見立てた作品。「かんしやくのすぢ」は三段目に取材したものだが、この相を持つ者は損をする事が多く、堪忍が大事であると説き、刃傷に及ばず友好的に振る舞う師直と判官を描く。「此海道はぶつ相」は五段目で山崎街道が物騒とされる事を踏まえ、定九郎が五十両を目当てに与市兵衛を惨殺する場面を描く。「ごばんすぢ」は五十両の入った財布の模様である碁盤縞からの発想である。

 

玉屋景物
たまやけいぶつ

山東京伝作、歌川豊国画
文化2年(1805)刊

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景物本とは店の売り出しなどの際に、商品に添えるおまけとして配られた草双紙のこと。商売繁盛名高い玉屋が当り振舞に七福神を招き、七福神は当時の人気役者とそれぞれ歌舞伎の名場面を役者物真似で披露する。福禄寿は勘平に扮し、五代目松本幸四郎扮する定九郎と忠臣蔵五段目の場面を演じる。七段目を演じるのは寿老人で相手のお軽は五代目岩井半四郎が勤める。七福神にまつわる鹿や鶴も登場人物として描かれており、忠臣蔵の名場面をもじった趣向がおもしろい。

 

養得☆名鳥図会
かいえたりにわこめいちょうずえ

曲亭馬琴作、[北尾重政画]
享和2年(1802)刊

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さまざまな人物・事物を鳥に見立てた鳥づくしの趣向をとる作。展示箇所左上部には、「忠臣蔵」七段目の大星由良之助を鳥風のポーズにした「めんない千鳥」が描かれる。七段目冒頭で、由良之助が遊女たちを相手に、めんない千鳥(目隠し鬼)のゲームをすることを踏まえたもの。画中には他に、雁金文七を鳥らしくした「かりがね」、寡婦の髪型を描いたカモメもどきの「やもめ」もみえる。

 

座敷芸忠臣蔵
ざしきげいちゅうしんぐら

山東京伝作、歌川豊国画
文化7年(1810)刊

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いろいろな座敷芸を忠臣蔵の各場面に見立てた作品。七段目後半を描いた部分では、妹お軽が密書を読んだことを知り、平右衛門が梅の木の身振りで斬りかかると、お軽は蝶々の身振りで飛び退く。本文中では「寒梅殿は寒中に咲くか咲かずに枯れるとは、さぞ植木屋が口惜しかろ」(原作では「勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのは、さぞ悲しかろ口惜しかろ」に相当)のように、植木づくし・虫づくしの台詞の応酬がなされる。

 

視薬霞報条
みるがくすりかすみのひきふだ

曲亭馬琴作、歌川国芳画
天保10年(1839)刊

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寛政12年(1800)刊『視薬霞報条』の改刻再版本。薬の引札(広告)をモチーフとして、様々な事物を薬に見立て、効能書き風の文を添える。忠臣蔵九段目を見立てた薬は「天蓋散<てんがいさん> 虚無僧<こもそう>の妙薬」。虚無僧に扮する加古川本蔵の名前の読みが、薬学を示す「本草」に通じることから、薬に転化したユーモアである。薬効は「戸無瀬の胸の痛み・お石ののぼせ・小浪の恋煩いを鎮め、婚礼のもつれを整え、芝居の元気を増す」とある。

 

口吸心久莖後編
ちゅうしんぐらこうへん

歌川国芳 作・画
文政12年(1829)刊

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江戸時代の浮世絵師のほとんどは艶本や春画に筆をそめており、国芳も.一妙開程由<いちみょうかいほどよし>などの隠号を使って多くの作品を残している。本書は男女の恋愛や当時の風俗を忠臣蔵の世界に見立てた作品。展示箇所は十一段目の討入りを描いたもので、義士に見立てた「弥次郎」「喜多八」が高師直を女性化した「おなをの方」を組み伏せている。書名の「口吸」を「ちゅう」と読ませる国芳の発想に言葉遊びの面白さを感じる。

 

新板忠臣蔵十一段続飛廻双六
しんぱんちゅうしんぐらじゅういちだんつづきとびまわりすごろく

寛政12年(1800)頃刊

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「仮名手本忠臣蔵」各段の有名な場面を描いた飛廻双六。一つの芝居の各場面を順に描くという形式から、京都で出版されたものと思われる。また各役には役者があてられているが、この配役は実際に上演された芝居を反映しているものではない。当時上方で活躍していた役者たちを忠臣蔵の各役に見立て、双六という紙面で夢の競演を楽しんだのであろう。なお、文化十年(1813)以降の京都では、本作品のような形式で顔見世興行の芝居を題材とする双六が毎年出版されるようになる。